最近よく聞くアイドル・ポップス雑感

ということで稿を改めるほどではないものの最近よく聞くアイドル・ポップスを取り上げ、その魅力に迫りたいと思います。

君の名は希望(DVD付A)
もう自分が乃木坂46のリリースする曲に対する客観的な視点を失ったことは自覚しているが、それでもこうやって書かざるを得ないのはひとえにバイアスを考慮しても尚このグループに適正な評価がされているとは到底言えないお寒い状況がそこにあるとしか言いようが無いからだ。なんということか……。いやそれはそれでいいのだけれど、という官能的誘惑を振りきってともかく、曲の方に話をやろう。
アイドルが歌うバラードというものはそもそもボーカルに表現力が無いのになぜか大仰しいバック・トラックが用いられがちで、その結果両者の剥離が寒々しい退屈に向かうことがほとんどなのだが、そうした悲惨な状況の例外として記憶されるべきなのが『君の名は希望』である。なぜなら無意味な華奢を削ぎ落としたパーカッションと薄く忍ばされたギターによるひねくれたメロディーが「バラード曲」の陥りがちな鈍重さを華麗に回避し、進行して行く末には驚くほど真に迫った展開が待ち受けているからだ。リズムとボーカルとコーラスの複雑な対置こそ無く、まったく一本筋ではあるが決して凡庸な袋小路には陥ってはいないし、わかりやすい創造性や文脈に目配せしたキャッチアップの不在は決して音楽的魅力を損ねるものではない。
強く指摘しておきたいのは、乃木坂46にとってカップリング曲は単なる数稼ぎではないということだ。『でこぴん』は5人の不安定でか細い声だが固有性があり、抑えながらも愛らしい歌唱とエレクトロニクスが絡み合うその音像はいちいち軽快で、妖艶なスウィートネスを遠ざける代わりに過度の感傷も遠ざける耳触りの良さがある。なんともそつのないまいやん、その震え声が批評的ですらあるななみん、ユーモアを忘れないかずみん、いるだけで最高なさゆりんごちゃんの4人の魅力もさることながら今回はまいまいの初々しくも落ち着き払った表情に耳を傾けて欲しい。ここには卓越して垢抜けながら少女像の延長線上にあり続けるという意味でアイドル・ポップの枠内に収まりきりながらも同時に都会を志向する感覚がある。『13日の金曜日』は『ぐるぐるカーテン』『おいでシャンプー』『春のメロディー』というソフィスティケートされ尽くした少女たちの若さを称揚するカタログ・ソングの系譜に置かれるべき一曲であり、モータウン・ビート+泥臭さを排除した流麗なストリングスという編成は既に至福をもたらすテンプレートとして確立しつつあるようだ。フック前で唐突に入るシンセを筆頭に尋常ではないダサさを誇る『シャキイズム』もガービッジなトランス歌謡として聞けば案外悪くない。少なくともボトムがすっきり構築されてて聞きやすいという点でAKB48の『UZA』なんかよりよっぽど優れている。
そしてここに通底するのは、ともすれば凡庸なものとして受け取られかねない抗菌されたテクスチャーをあえて引き受け、肩肘を張らない小品としてのポップスへと着地させる大衆主義だ。それは後見人の秋元康によるありがちなモチーフによるひねった表現の無いわかりやすいストーリーテリングと結び付くことでブレることなく貫徹される。かくしてこのシングルは簡単に音楽的背景を見せびらかすことなく、あるいはまったくそれを排したものでもない、大衆に受け入れられるための中庸だが黄金の良質なポップ・ミュージックを作り出すという乃木坂46の一つのステートメントとして見事に成立している。


ファーストアルバム(仮)
アップアップガールズ(仮)は自らにEDMやその影響を孕んだネットレーベル・ポップの勢いをダブらせることで躍動する力を高めると同時に広い意味での同時代性を獲得するという非常に優れた戦略を用いている。こうした目配せがある1曲1曲のクオリティの高さは折り紙つきだ。しかしアルバムとして一挙に集めてしまうとそのマジックに陰りが出てくる。すなわち、ダンス・ミュージックの勢いを援用するのと楽曲の統一性に拘った結果似通った曲調とBPMが採用されやすいせいか聴き進めるうちに疲れてしまうのである。まあ既にアルバムのトータルでの完成度至上主義という概念は古びたものとも言えるわけで、そこから一歩引いた目で見ればこのアルバムは宝石箱であることに疑いはない。それにしても、あと一曲でも『End of The Season』みたいな曲があれば……と考えてしまうわけで、そうすると何故『Beautiful Days!』を入れなかったのかという疑問が生ずる。謎。

So long !【多売特典生写真なし】(初回限定盤)(TYPE-K)(DVD付)
これは思わぬ拾い物。少なくともAKB48のシングル表題曲としては『真夏のSounds good!』以来の成功作だ。6分を超えるプレイタイムと不感症のように引き伸ばされた構成は冗長なものかと思いきや、全編を貫く過剰すぎないストリングスとホーンがふわふわとした宙吊り感を付け加え、大袈裟に重ねられたコーラスがサイケデリアを誘発する結果思いも寄らぬトリップ感に満ちたサウンドスケープが形成されている。あるいは「卒業・合唱ソング」のどうにも拭い切れない幼児性をようやく乗り越えようとしているのかもしれない。カップリング曲はアンダーガールズの人選以外、特に言うことはありません。

  • BiS / IDOL is DEAD

IDOL is DEAD
これリリースは去年なんだけど、まあ最近よく聞いてるので。TMGEHi-Standardシューゲイザーetc……と卒倒しそうになるパスティーシュの乱れ撃ちは恐らくプロデューサーの嗜好が強く出ているものでかなり安っぽいがファンクやソウル、ではないチープな音楽的バックボーンがB級アイドルとしての彼女らのイメージに結び付き十分に功を奏している。サウンドが模倣の粋は出ていなくとも、一曲一曲は高品質でアルバムとしての統一性もある。侮れない。

  • BiSとDorothy Little Happy / GET YOU

GET YOU (Dorothy Little Happy盤)
「アイドル界において対極に位置する両者のコラボレーション」という煽りは刺激的だが、残念ながら楽曲は特に化学反応が起こっている形跡は無い。で、じゃあダメなのかというとそんなこともない。ドスンと構えた四つ打ちによって動き回れる余地をもらった下品な低音エレクトロニクスはBiSの過激であろうとするスタイルにハマっているのに、仕上がりはウェルメイドなところに着地していていかにもDorothy Little Happyらしいという、両者のファンが文句を言わないところをきちんと弁えている。まあそれだけと言えばそれだけだけど。面白さという点ではお互いがお互いをカバーした『nerve』と『デモサヨナラ』の方が存分に個性が出ており、優れている。

チョコの奴隷  (SG+DVD) (Type-A) (初回生産限定盤)
成功したグループの姉妹グループが現れるのは資本主義の常だが、48グループはその姉妹グループにローカルな地域性という要素を味付けすることで差異を含めてグループ全体の力として稼働させていこうとしている点が特徴的で、現に今のところは成功している。問題は音楽性においての差別化が果たして為されているかという点なのだけれど……下世話なファンク歌謡に舵を取ったNMB48に比べるとこれまでのSKE48はそのプロダクションが二転三転する分裂病的に混乱しきったもので、とりあえず収拾を付けるためにAKB48のテンプレートをなぞっていた印象が強い。
それはいくら紅白に出たとは言っても良くも悪くも全国区に出るにはこれから、ということだが『チョコの奴隷』は『1!2!3!4! ヨロシク!』と共にまさに体育会系ダンス集団としてのSKE48の名刺代わりとなるべき一曲である。アッパーでどこか空虚なディスコ歌謡サウンドがアイドルの儚さとだからこその享楽性を騒がしく訴えかける……というのは時流に引っ張られすぎた解釈だろうか。

こあくまるんです/サヨナラのかわりに2013 (通常盤Type-A)
チップチューン風味のエレ・ポップは少女の無垢さを表象する込み入っていないチープさが印象的だが、歌声にあまりに色気がなさすぎてアイドル・ポップの常道たる男たちに都合の良く歪められたイノセンスを体現するというより、スタイリッシュに割り切った職業音楽の洗練すら感じさせる。とはいえ、『もっと ぎゅっと ハート』の得体のしれないシカゴ・ハウスのようなどこか暖かい高揚感は無い。

東京女子流 / 約束

約束 (Type-A)  (ALBUM+Blu-ray Disc)

約束 (Type-A) (ALBUM+Blu-ray Disc)

アイドル・ポップというのはその音楽に固有性があるわけではない。ゆえに重要となってくるのは楽曲とデザインにコンセプト、そしてパフォーマンスを一定の指針と共に統合する作業である。そういうわけなので、一部一部が局所的に優れていることは優れた曲や優れたパフォーマンスとなっても優れたアイドル・ポップには成り得ない。その事を理解することなく闇雲に音楽性の高さをアピールするバブルガム・アイドル・ポップが氾濫する中、東京女子流は高いクオリティでコンセプチュアルな佇まいと音楽性とが有機的かつ不可分に結び付く稀有なグループだ。
その証明の一つが2012年にリリースされたアルバム『Limited addiction』であり、ここでは大人であろうとする少女たちの内面における揺らぎを慎重にファンク・ビートに乗せることで、リズムにおけるダイナミズムを勝ち取りながら女性・少女のせめぎ合いを表現していた。
そして喜ぶべきことに3作目となる『約束』においてその結び付きに対する注意は後退することなく、貪欲な深化を見せようとする。その全てが成功しているとは言えないが、彼女らはティーン・エイジャーの無邪気であけっぴろげな態度と女性の気取った態度という二者のペルソナにおける振れ幅を更に広げようと挑戦しているというわけだ。


ところで1stから本作にかけて通底される東京女子流サウンドとは、一言で表現するならファンクの流儀を用いた色気のあるポップネスである。綺羅びやかなアレンジによってそのテクスチャーは、ポップスとしての間口を広げながら10代少女の繊細な揺れ動きを品良く描写する。その一方で脈打つマシン・ファンクはボーカルに寄り添いながらあたかも少女でいられる時間は過ぎ去っていくことを示すかのように確実に漸進する。マッシブなビートはアイドル・ポップスの素晴らしさというものが彼女らがダンスする度生じる躍動の力をリズムで共有する点にあることを強調するかのようだ。このように展開されるポップな上モノと強靭なリズムは一見反りが合わないが、5人のミドルティーンゆえのあどけなさが残るヴォイスと周到に積み重ねられたハーモニーを通すことで、あっと言う間に結び付くのみならず、合理性を飛び越えたある種の倒錯に満ちた高みへと到達させる。コンポーザーとパフォーマーの華麗な職務分担は凡百のもったい振りながら結局のところ陳腐な内面を無理やり音として吐き出すだけに過ぎない自称アーティストたちを強烈に、しかし軽快なファンク・ポップで飛び越す。
こうして確立されたメソッドは『約束』において純血主義的に貫かれながらも、時に微妙な変化を付けることで前述した女性と少女という両者を再び秤にかけようとする。


前半は凡庸と言わざるを得なかった既発曲のまとめという印象はあるが、耳を傾けるべき部分はある。古びたギターとベースが囁きながら突然ギターそのまま”Bad Flower”へ突入する変化のカタルシスは単調でネバつき無く色気を欠いたリズムと進行が退屈をもたらす失敗作というこの曲への印象を変えるのに十分だし、未熟なボーカル・ワークと壮大なプロダクションが率直に言って剥離している”追憶”もここではその拙さが後に展開されるハッとするようなムーディーな表情の伏線となるよう周到に配置されている。
既発曲の軸の定まらなさを構成によってカバーしたそこから先はいよいよアルバムとして何を目指しているのか明確となってくる。すなわちコンセプチュアルに言えば、大胆な女性と無垢な少女というペルソナの付け替えを楽しむようなませた少女像の明確化であり、音楽的に言えば腰の据わったビートとギター、ホーンによるファンクネスによって肉付けされたポップスのハイブリッドな魅力である。
1stの頃を思い起こさせるファンキー・ポップは少女像のペルソナの表象である。”それでいいじゃん”は初期の女子流における”おんなじキモチ”の延長線上にあるが、バックで鳴らされるキーボードと挿入されるブレイクはこの何年かによる彼女らの表情の変化を際立てることに成功しているし、リリックは少女たちの快楽主義を際立たせながらそれによりリスナーをもビートの快楽へ誘う。
音楽的な新機軸は大人らしさの気取りを的確に捉え、また描写するために用いられている。 “月とサヨウナラ”は絶え間なく鳴り続けるベースとピアノのマラソンがジャズ「らしさ」を引き出し、そこで生まれた隙間を女子流らしいという言葉が当てはまる、既に確立されたファンク・ホーン・メソッドで埋めることで密室性を帯びた色気を見せつける。すわNJSかと言わんばかりのスネアを強調した、80年代流儀のタイトなビートに接合されたボーカルが現れては消えてゆく”幻”に繊細なリズム・パターンの優美さは無いがそのかわりに彼女らのボーカル・ワークが大人らしさに挑戦し、成功しながら失敗していく姿を捉えるドキュメンタリーティックな生々しさがある。
だがその一方でこのアルバムの評価を下げる点があるとすれば、かったるいカバーの2曲はその最たる部分である。気が滅入るほど時代錯誤な” Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜”を後世に残るスタジオ録音物に収録させる意図はよくわからないし7分弱にも及ぶ”LolitA☆Strawberry in summer”は相変わらず冗長で取り留めがなく、アルバム全体の緊張感を削いでいる。
このようにペルソナを(時には失敗しながらも)巧みに使い分け、なお分裂気味の印象が無いのはサウンドにおけるトータルプロダクションの妙とも言えるが、”ふたりきり”のような曲が後半に配置されていることも大きく貢献している。アップテンポに響くベースとドラムはボーカルが自由に表現出来るスペースを与え、5人それぞれの表情が活き活きと描写される。少女の拙さとそれが大人のハッとさせられる表情を見せるその瞬間を同時に、克明に記録したこの曲はアルバムのベスト・トラックと言うべき完成度を誇っている。


女性と少女を揺れ動く。ある時には歳相応の、ある時には驚くほど色気のあるその表情を曲ごとに使い分けられるようになっているのは2ndからの大きな飛躍である。そこには色気と無垢、気取りと素の表情を行き来するのみならず、ティーン・エイジャーが気取りの態度を身につけながら女性になろうとする姿そのものを戯画的に描写するかのような知性すら感じさせる。こうした統制された両者の振れ幅というものは5人のボーカルそれぞれの声質・歌い上げのスタイルによって基礎付けられるものであり、彼女らの成長と密接な関係にあるからこそ、そこで重要となってくるのは個々のパーソナリティに他ならない。そしてそれこそが彼女らがパフォーマーである唯一無二の必要性と言えるところであり、それがアイドル・ポップとしての面白さとして結実しているのである。それはすなわち、互いに必然性がある結び付きは強度のある音楽を生み出すということの証明でもある。それにしてもなんとも幸福なグループだろう。

Robert Glasper / Black Radio Recovered: the Remix Ep

Black Radio Recovered: the Remix Ep

Black Radio Recovered: the Remix Ep

ネオ・ソウルというタームが流行したのは10年以上前の話であるが、そこから現在に至るまでポップのフィールドにおけるブラック・ミュージックの更新者たる資格を有する存在はその旗手たるディアンジェロエリカ・バドゥたち(あるいは同時代におけるティンバランドミッシー・エリオットたち)以外にはいないとここでは言ってしまっておう。例えばレトロ・ソウルなんかはエイミー・ワインハウスがサラーム・レミと共に作り上げた「バック・トゥ・ブラック」だけで十分だし、クラシカルな響きに頼りすぎていたせいかジャンルとしての射程はあまり広いものではなかったように思える。いや……そもそもメインストリーム・ポップスがアーバン化しきった現在においてはブラック・ポップにおけるサウンド・プロダクションの特異性というのがいまだ存在するのかさえ疑わしい。
ブラック・ポップのメインストリームへの同化が悪いとは思わないが、やはりクラシカル・ソウルへの憧憬を、ニューソウルのコンシャスな態度をもって、トライブ・コールド・クエストのジャズ・ヒップホップの流儀でジェイ・ディラの持っていた音響への目配せと共にブラック・ポップとして昇華せしめた彼らにはネオ・ソウルという(胡散臭くも優美な)タームを作り出すほどに固有性があり、過去の黒人音楽の歴史へのリファレンスに富みながら、同時に時代の空気を吸い込むオープンな姿勢というものがあった。

とはいえ、現在ネオ・ソウルを援用することで必ずしも新しい作品足りえるかと言えばそれは疑問である。ロバート・グラスパーの「ブラック・レイディオ」に感じたのはまさにそこであった。エリカ・バドゥやレイラ・ハサウェイなどネオ・ソウルの代表格を招いた「ブラック・レイディオ」はブラック・ポップのジャズマンシップによる発露としては確かにウェル・メイドな作品ではあるとして、最新型のブラック・ミュージックと捉えるにはやはり2012年の作品としてネオ・ソウルを展開しようとすることへの少しのぎこちなさが存在している。かと言ってジャズマンの美学を感じられるほどのパーソナリティが色濃く残っているわけでもない。モダン・ジャズの隙間を活かしながら器用にシンガーやMCを招き入れるサウンド・メイキングはプロデューサーとしての手腕を見せつけるがミュージシャンとしてのロバート・グラスパー本人のピアノは伴奏に徹し、むしろクリス・デイヴのドラミングの方が主役を食っているのでは……という印象すら残った。
ここで面白いのはロバート・グラスパーのそういった実験精神の失敗、ぎこちなさがクオリティとしての失敗へと繋がることは踏みとどめられていることだ。ジャズマンの時代錯誤的な実験精神が異形のポップスへと繋がることはかのマイルス・デイビスが晩年にはからずも実践してしまったことでもあるが、前衛であるべきだとか音楽としての進化だとかいうお題目の失敗は必ずしも聞く価値の無い音楽を生み出すわけではない。素晴らしい録音の中である程度のキャリアを積み重ねてきたアーティストたちが流麗な演奏とボイス・パフォーマンスを繰り出していき、複雑に交錯するテクスチャーには艶やかで優美な気怠さとメロウに鳴り響くグルーヴィーなソウルがある。まあ一言で言ってしまえば洒落ているのだ。ということで個人的にはなかなか愛聴させてもらった。



さて前置きが長くなったが「ブラック・レイディオ・リカヴァード・ザ・リミックス」である。ここでもリミックスの人選はヒップホップ人脈に傾いているが決して最新のビートを取り入れているわけではない。しかしそのことはやはり、作品としてのクオリティを左右するものではないのである。
前半の2曲、ピート・ロックとナインス・ワンダーの2人は慣れた手付きで原曲を再構成していくがやはりそこで斬新な手法を取り入れようとはしていない。クリス・デイヴのドラムを組み替えてサンプリング・ミュージックのビートを仕立てつつも原曲のフォーマットを崩さないことへ神経質なまでに注意を払っているにすぎないが、昨年マッドリブと組んで素晴らしいアルバムをリリースしたジョージア・アン・マルドロウはここでも耳を傾けるべきサウンドを展開している。反復が強調されるベースラインには原曲の破綻なく作り上げられたプロダクションをジャム・セッション的に、あるいはフリージャズ的に再構築する強度があり、それは彼女の煤けたサイケデリアによって美しく裏付けられている。
エストラブも相変わらずというか、ザ・ルーツの流儀をもって自らが優れたドラマーであると共に優れたプロデューサーであることを同時に証明しようとする。ザ・ルーツロバート・グラスパーを招き入れたようなこのリミックスはロバート・グラスパーとクエストラブの目指す点の差異を明らかにしている。すなわちクエストラブはジャズとソウルの接合にアーティスティックな価値を見出すのでなく、むしろ自らも大きな要因であるネオ・ソウル的な感性を再びポップなブラック・ミュージックへと変換していこうとしているのだ。ロバート・グラスパーのセルフ・リミックスもブラック・ミルクによるカラフルなサンプリングに寄るところが大きいとはいえ十分魅力的だ。
ラストの、"Dillalude #2"もまた素晴らしい。ディラのビートを再解釈して弾き直すというテーマ自体はありきたりと言わざるを得ないとはいえロバート・グラスパーの心地良く落ち着いたピアノとクリス・デイヴのタイトに冴え渡るドラミングに支えられるジャズ・ミュージシャンのリラックスした演奏感覚は退屈とは無縁であり、このバンドのタイトな演奏が味わえると同時に、ディラがサンプリングという技法を用いて美しいソウルを再発掘していたことを改めて認識させられる。


むしろこのリミックス・ワークで強調されるのはリミキサーの個性と言うよりも「ブラック・レイディオ」におけるジャズ/ソウル/ヒップホップの接合の配分の塗り替えである。言ってしまえばロバート・グラスパーがリミキサーたちの手腕を借りてもう一つの接合の可能性を探っているような印象すら感じられる。そもそものコンセプトが斬新でなく、またここでの人選もそのコンセプトに則ったものである以上異なる領域の驚きというのは感じられないが各々のリミキサー、特にジョージア・アン・マルドロウとクエストラブの働きは見事でこのリミックス集を十分価値あるものへとしている。また、「ブラック・レイディオ」において抑えられていたロバート・グラスパー・バンドの演奏感覚がいかにソリッドかを再び思い知らされたのも収穫である。なるほど、どうやら優れたミュージシャンにとって多少のコンセプトの錯誤は問題とならないらしい。

でんぱ組.inc / W.W.D / 冬へと走りだすお!

当然のことだが、セールスが良いということがその音楽をポップ足らしめるとは限らない。ポップ是如何?というのが難しい問いだとしても、そのことは今のチャート・ミュージックを見れば明らかだろう。なんにせよ、現在のアイドルブームがどれだけCDを売ったところで(島宇宙化という言葉が適切かどうかはともかく)そのムーブメントは未だ一つのトライブにおけるものであるわけで、異なる場所にいる他者の人生を提示し繋ぎ止めるような音楽が生まれているわけではない。
でんぱ組.incは断片化した文脈をある時には利用しつつ、ある時には避けようとするグループである。例えば“Future Diver”ではアニメソング的な曲調・展開を利用していた彼女らであるが、秋葉原イメージを援用しながら同時にその軸をうまくズラすことで“キラキラチューン”という見事なポップ・チューンを繰り出しているし、あるいは“Sabotage”や“強い気持ち・強い愛”という90年代ポップスのカバーを披露しながら”くちづけキボンヌ”ではTOTEM ROCKを作詞・作曲に起用することで90年代に目配せをするのみならず、(今では)より同時代的なシティ・ポップとも共鳴する。
このように彼女らは楽曲の方向性におけるイメージの固定化を避けながらゆらゆらとアイドルポップスを展開することで、時にアイドルという文脈から離れまた別の場所へと接近しようともする。そこに通底するものはアイドルなるものを常に対象化していく知性である。それはあるいは島宇宙と別の島宇宙を繋ぐだけでより広く人々に膾炙するポップスには成り得ないかもしれないが、少なくとも蛸壺に陥ることを避けようと外に目を向けているのは確かではないだろうか。今作はそうした彼女らが見せてきたスタイルの集大成とも言えるだろう。これまで用いてきた文法を2曲にまとめあげた『W.W.D / 冬へと走りだすお!』はやはり評価せずにはいられない魅力に満ちたシングルである。


“W.W.D”はもはや詩作という作業を放棄したかのような、赤裸々というよりかはいささか品がないとも言えるほどのあまりに直接的でパーソナルなリリックが売りとなっているが、そこには自らの人生そのもののキャラ消費を受け入れようとする、覚悟に満ちた清々しさがある。前山田健一作曲・編曲という前情報から我々が想像するサウンドの予想を何一つ裏切らないコンポジションもまあ悪くはない。
だが、ここで注目すべきはコンポジションそれ自体というより過剰な音数に満ちたトラックを用意しながら6人のボーカルをリリックと結びつけ、縦横無尽に展開しようとするそのプロダクションの巧みさにあるだろう。ギターサウンドからオーケストラ、テクノポップチップチューンと音色を効果的に使い分けながら詰め込まれたリリックを進行させていくという大曲志向はオタク的過剰さの表象でもあるが、その過剰さが細部への抜かりへと安易に繋がることなく、大仰しく芝居がかったでんぱ組.incという集団の胡散臭さを見事に引き上げながら彼女らの世界観を確固たるものとすることに成功している。さすがに後半の演劇ティックな独白は冗長でもあるとはいえ、基本的にはだらだらとしたリリックを強調することが退屈を導かず、その過剰さを楽曲自体の漸進する力としているのである。


“冬へと走りだすお!”は作詞にかせきさいだぁ、作曲・編曲に木暮晋也を迎えたという点でともすれば同布陣で作られた“くちづけキボンヌ”の二番煎じともなりかねないところを、渋谷系からの引用をやり過ぎなほど直接的に行うことで(わざわざ指摘する必要も無いだろうが、中盤の「語り」はあからさまに小沢健二“愛し愛されて生きるのさ”とかせきさいだぁ“冬へと走りだそう”を下敷きにしている)その明け透けさを利用しながら既視感を周到に回避している。
同時に、冴えたアコースティックな質感と現代的に小ざっぱりとまとめられたアップテンポな曲調は6人の特徴的な声と精緻とは程遠くも愛らしいハーモニーを活かしながら、90年代懐古趣味を拒むことを表明する。ここで彼女らは渋谷系の時代に生きたアーティストたちの自意識をそのまま引き受けるわけではなく、あくまで風通しの良い小品的ガールズ・ポップとして昇華させているわけだ。そこにあるのは決して教養主義ではない。


この2曲の主題(すなわちあからさまな物語吐露と、渋谷系の再解釈ポップス)は特に目新しいアイディアというわけではない。しかしそれをアイドルポップスというマーケティング・タームの上で、自分たちの流儀をもって料理していくことで一つの突破力を持つ楽曲に仕立て上げている。無論、こうしたむしろアイドル外からの文脈を孕みながら活動していくグループはいわゆる「サブカル」的な発想と結びつきやすいものであるわけで、そうした点に対する拒否感が無いわけではない。
しかし、アイドルブームなるものが現にあってその中でニーズに合わせた要素への一極化が推し進められている中こういった外に向けた魅力を意識しながら展開しようとするグループの存在は重要であると言えるし、次に何が起こるかわからない高揚感がある。同時にその前提として重要であるべき楽曲やパフォーマンスが魅力的である以上彼女らを評価しないわけにはいかないのではないか。彼女らが次に何を取り入れるのかはわからないが、おそらくまた驚きに満ちたものになるだろう。世界は窮屈で退屈だが、それは知性と一摘みのシニシズムがあれば突破出来るものでもある。

ベスト記事補稿

何回似たような記事書いてんだよお前はよ、ってハナシですがよくよく考えると前に挙げたの下半期ベストっぽいし総括感が無かったのでグッとまとめて選びました。改めて選びなおすと順位が変わってるのはまあーご愛嬌ということで。Frank Oceanとかクリスマスに一人で聞いてたら泣いたので本当は入れたくないんですが入れます。

  1. Kendrick Lamar / good kid, m.A.A.d city
  2. 田我流 / B級映画のように2
  3. Shackleton / Music For The Quiet Hour / The Drawbar Organ EPs
  4. Mala / Mala in Cuba
  5. Dean Blunt & Inga Copeland / Black is Beautiful
  6. The XX / Coexit
  7. Frank Ocean / Channel Orange
  8. ECD / Don't Worry be Daddy
  9. SALU / In My Shoes
  10. Ogre You Asshole / 100年後


あと行ったライブとしては

辺りは非常に面白かったです。もちろん3月のたかしくんレコーズイベントも最高だった。
それと8月のAKB48、13期研究生だけの劇場公演とTomato n' Pineの散開ライブ@西麻布elevenは特別な意味でも忘れられない思い出。

乃木坂46@Zepp Tokyo観てきた

乃木坂46Zepp Tokyo公演を見に行ってきた。昼夜で見て、うーんとにかく最高だった……アイドルというなんだかよくわからない性の搾取を基調とした狂った文化がかくも人を幸せにできるものなのか、狂っているのは果たして俺なのだろうか、みたいな。ものすごく個人的な雑感であって客観的になどなれるわけない、あの場を共有した人々に対して「あそこ良かったよな!?やっぱ最高だったな!」と語りかける以上の価値は持たない文章なのですがとにかく放出しておきたいので。


とりあえず良かったとことして、まずはメンバー一人一人がきちんと仕上げてきているというか、自らの表現をどうすべきかという点について非常に自覚的であったのは素晴らしいことだと思う。例えばそれは笑顔であり続けることであったり、タイトなダンスであったりと、優位性というのはとにかく様々な点があると思うのですが一人ひとりが自らの持つ「何か」を持ち味にしていこうという選択し、それを見事にパフォーマンスに反映させているのは面白いし見てて飽きない。個人個人の妙技の素晴らしさね。
特にその傾向はアンダーメンバーに顕著で、メディア先行型アイドルである乃木坂46のメンバーでありながらメディアに映る機会の少ない彼女らがライブの一回性にかける意気込みというのは非常に泣けた。そのピークが『春のメロディー』であることは言うまでもないだろう。『狼に口笛を』も良かったけれど……。とにかくマスゲームティックにならないというか、個人個人のズレが押し出されていて画一化されていない所には大いなる好感を持てた。とにかく全員良い。これは凄い、最高最高だと思うよ。
それと乃木坂46の素晴らしいところであるアンチ競争というある種テマティックなシステムがライブにも反映されていて、例えばMCの最中や曲の最中でもメンバー同士のイチャイチャというか、なんかこうやって書くのも恥ずかしいんですが何気ないやり取りが結構垣間見えるというのも良かった。その事を涼しい顔で「統率され切れていない」と述べ立てるのも簡単だとは思いますがまあアイドルに何を求めているかという問題ですよね。
無論、確かに、そうした個人のパフォーマンスや仕草に対する注視というのは容易く反転せざるを得ないわけで、悪い点としては例えば統制されたタイトなパフォーマンスに揺らぎを垣間見る楽しみであったりもしくは統率された火の玉のようなエネルギーを感じることは難しいように思えた。とはいえ、この点はあまり大した問題ではなく、何故ならばむしろ素晴らしい楽曲で素晴らしい女の子が大勢自分のリズムとソウルで歌い踊るという事のあまりにプリミティブな快楽は統制された美をあっという間に乗り越えるものであるからだ。このプリミティブな快楽の頂点が『ぐるぐるカーテン』〜『おいでシャンプー』〜『走れ!Bicycle』の流れであってこの多幸感(使い古された表現ではありますがコレ以外に思い当たる言葉があるのならむしろ教えて欲しい)はもはやEを食ってブッ飛ぶのより気持ち良かった。最高、フレーミング・リップス超えた。


しかしねえ問題はそこにあるんですよ。あまりに商品化されてない素晴らしさというか、素晴らしい女の子と素晴らしい楽曲と素晴らしい振り付けを用意すれば素晴らしいのは当たり前であってそれを乗り越えて何かを提示する知性というのが感じられなかった。それは100%運営が悪いのだけれど、とにかく乃木坂46という集団が果たして何をやりたいのか?何をやらせたいのか?というヴィジョン、共通認識は厳しい言い方ですが一つも提示しきれていなかったと思う。テレビ的というか品良くまとまってしまっているというか。
商品化しない、というのが商品としてのあり方だと言い切るのならばそれでも良いとは思いますが(むしろワタシはそれを評価する一人でもあるので)じゃあもっと曲の完成度のブレを無くしたり、あとメンバーの格差というか、どうしても選抜組が多く出ざるを得ないという構造を変えたりとやれるべき、やるべき事は無数にあるわけですがそれを是正するつもりも感じられなかったしやはり中途半端な感は否めない。それと結局「アイドル」という文脈で売り出している以上そうした魅力というのはいずれ擦り切れていくというのを我々は何度も経験しているのであって……余計なお世話かな?でも来年もこうやって淡々とした売り出し方をしていくのか心配になった。まあ今が最高だと俺ら転がっていくのも良いと思うけれど。
あとMCはそもそもカチっと作り込んだやはりテレビ的な技法が良くも悪くも目立った……のは全然良いとしてもオタクたちがレスを求めて騒ぎ続けてMCを誰も聞いてないのではないか?と思わされるほどの賑わいというのはこれはいかんでしょう。そもそもダンス=セックスであると同時にアイドルのそれは一種の宗教的秘匿のような色彩を帯びた密室性における隠すべき愉悦であると考えているのですがそれを自らのステージまで矮小化させないと解釈しきれないというのは基本的に成熟が足りない。なんのためにステージが高くあると言うと、それは観客と彼女らがその分だけ隔絶されている事を冷酷に示しているからなんですが、とにかくそれを理解してない輩は本当にどうかと思いますよ。


こうして書くと悪い点を後に書いてるせいでなんか良くなかったみたいなんだけどステージに注視してる分にはとにかく最高だったということを記しておきたい。各論的に挙げていくとするならば『せっかちなかたつむり』のスタンドマイクで歌う年長メンバーと後ろで歌うヤングたち!の構図に常人であるならモータウンっぽさを見出さずにはいられないし、何かに到達することは出来ないけど探し続ける彼女らのその過程を激エモーショナルに現した『指望遠鏡』も最高。それと『やさしさなら間に合ってる』のしっとりしたキャッキャウフフ感も感無量だし『偶然を言い訳にして』はやはりクラシック中のクラシックだった……。


ライブ直後の興奮による恥辱を隠さずに書いてしまって恐縮ですが、雑感としてはそんな事を思ったりしました。

2012年ベストシングル

インターネットをやっていると、とにかく知らなくてもいいことを知ってしまう。今の時代は情報過多で……なんてもっともらしい言葉を使うまでもなくもっと身近な問題で、例えば購入しようとアルバム名で検索をかけただけで違法にアップロードされたファイルを見つけてしまうような……そんな中で、どれだけ一つの音楽に対してフラットになれるかというとそれは難しい話であって我々はフラットであることすら、ぎこちない作為と共に一つの価値観として選択しなければならなくなっている。
しかし世の中にはそれくらいの事すら自覚せず何かにフラットであることがあたかも絶対的に正しいかのように、価値観を押し付けてくる連中がたくさんいる。個人の話じゃないが、それを商売にして押し付けてくるレコード屋やその他ライターエトセトラに本当にウンザリだ、全員消えて欲しい。
音楽について何かを一方的に嫌い、同時に別の何かを偏愛することがそんなにいけないことなのだろうか……とにかく嗜好における美学にすら口を出して来ようとするお節介な奴らには気をつけなければならない。


そんな感じで選びました。ベストトラックではなくベストシングルということで。



制服のマネキン
乃木坂46が80年代アイドル歌謡や90年代J-POPを元ネタにしている事は誰の目(耳)にも明らかだが、問題は曲の強度によってその射程が直接のネタであるアイドル歌謡、ポップス自体の元ネタまで及んでいることにある。1stはモータウンであり、2ndはフレンチポップ、3rdはもはやロックンロールだ。そして4thにおいて彼女らは90年代J-POPの意匠をまといながらシカゴ・ハウスやデトロイト・テクノという温かな電子音楽の記憶を鮮やかに思い起こさせる。
音楽の歴史を想起させながら、あくまで教養主義に陥ることを拒み2012年のJ-POPに落としこもうとする姿勢はアーティスティックな「気取り」の世界から遠く離れた場所にしか存在し得ないアンチ・エリートの力というものを生み出す。今年出た4枚はどれも本当に素晴らしいが最新作であり、あとはまあ僕自身一番多く枚数を買ったのがこれなので(早口で)


  • Andres / New 4 U

音楽ファンとしてあまりおおっぴらには言えないのだけれど、わざわざレコードをセットして針を落として音楽を聞くのが自分にはとにかく面倒に感じられる。ヴァイナル限定とかケチ臭いことやってないでチャチャッとmp3コードを同封してくれやと常日頃は心の底から思っているのだが、しかしこういう、心に直接響くような、何よりも素晴らしい音楽がヴァイナルで現れると、それはなんだかアナログ主義者の特権のようで無闇矢鱈な人には聞かせたくないような意志に駆られてしまう。
Moodymannの崇高さすら感じられるブラック・ソウルを濃厚に引き継ぎながら、その発現たるハウスからサルソウル、ディスコにヒップホップへと自由自在に姿を変える音像の美しさと来たら……。そこにJ Dilla風味も忘れられてはいないところがまた泣けるんだ。


  • EVISBEATS / ゆれる feat. 田我流

いい時間 / ゆれる feat.田我流 [7 inch Analog]
今年は田我流に心を奪われっぱなしの一年だった。主演作であるサウダーヂは素晴らしい作品だったし『B級映画のように2』もリリースから今に至るまで延々と聞いている。この曲も本当に良い。正直なところ好きすぎてあんまり書けない。


  • Swindle / Do The Jazz

Do The Jazz
DEEP MEDiは今年も面白いシングルを大量にリリースしましたね。有名無名問わず様々なアーティストがダブステップの「次」を模索する姿勢は実に爽快で、色々買ってしまったのだけれど中でもこれはダントツで素晴らしい。小気味良く鳴らされるクラップにのたうち回るベースライン、デトロイティッシュな上モノにツボを抑えたブレイク。さしずめフューチャー・ジャズ(死語)風味なアーバン・グライム・ファンク。
彼のもう一つのDEEP MEDiリリース作『Forest Funk』もG-Funkっぽくて素晴らしいけれどDo The Jazzというタイトルが何より良いのでこちらで。


  • Jai Paul / Jasmine

モテ男の苦悩を語る(そんなの知らんよ!と言いたいところだけれど……これが泣ける)Drakeと愛の限界を諭すJames Blakeに通底するのは孤独な、自意識塗れのメランコリーである。とにかく一人でいると好きな相手がどう思っているか答えも無いのに悩んでしまい、それは僕たちを容易にバッドに陥れるものだが、この憂鬱が彼らの手にかかればエレガントなソウルに落とし込まれ、あるいは地響きのようなベースと調和させられているわけだ。
早い話、『Jasmine (Demo)』はその中間に位置するメロウ・ベースサウンドである。しかし巧みな音響センスと消え入りそうなボーカルはこのトラックを単なる模倣に終わらない、息の詰まるような密室系シンガーソングライターの歴史をも呼び起こす強度を付け加えている。


  • TNGHT / TNGHT EP

TNGHT (WAP337LM)
正確にはシングルというよりEPだけれど……。ズシンとしたボトムにポコポコしたスネア、無意味に綺羅びやかなシンセがレイヴ前夜を思い起こさせる。同時に(ウォンキーだなんだというより)これはヒップホップでもある。原初の喜びに満ちた、エレクトロやディスコとの血縁がまだ明らかである頃のオールドスクール・ヒップホップと呼ばれるものをビートミュージックとして再解釈したような、エクストリームなEP。


  • Salu / I Gotta Go / ホームウェイ24号

I Gotta Go / ホームウェイ24号 (期間限定生産盤)
それこそBACH LOGICというプロデューサーは綺羅びやかでゴージャスな厚い音を使えるポップ・クリエイターでもあるわけで、ラップ・ミュージックにおいて彼のメロディアスな強みを出すにはその技法についてある程度の逸脱が可能なMCを供されることが重要である。なるほどSaluほどその意図を汲めるMCは他にいない。歌を交えながらヒップホップの文法を崩しつつ、ポップなトラックを柔軟に乗りこなしていく姿勢はまさにヒップホップがメインストリームに取り込まれているUS的な発想(あまり比べてどうこう言うのも古いとはいえ……)の産物でもあるわけだ。
そしてこのシングルは軽快でさりげない、ラップを用いた都会のポップスである。ERAのような、夜の世界のタフで刹那的な質感は無いが、代わりに昼の世界の日常を気怠くも前向きに描いている。


アッパーカット!/夕立ち!スルー・ザ・レインボー
2012年にネットレーベルを出自とするクリエイターがアイドル・ソングを作って出来が悪くなるはずがない。勢いに乗っている人々の作り出す音楽というのはそれだけでもまったく侮ることの出来ない突破力を持っており、この両A面シングルはまさにその象徴でもある。
彼女らの今年リリースしたシングルは、モロEDM……というかSkrillex『Rock n’ Roll』な『UPPER ROCK / イチバンガールズ!』や最も素晴らしかった頃のPerfumeを鮮やかに思い起こさせる「テクノ・ポップ」RAM RIDER作曲『End of Season EP』など、クラシック揃い。


ROAD TO BUDOKAN 2012 ~Bad Flower~ (SG+DVD) ジャケットA
2011年の彼女らは「大人」であることへのアピールに結びつけながらアーバン・ファンク、フュージョンといったサウンドに舵を取る姿勢を示していたが結局のところ今年はそうした明確なサウンドの着地点を出せていなかったように思える。だからといって曲一つ一つの完成度が落ち込んだというわけでは無論なく、今作でも縦ノリの激しいギターと打ち込みビートが気持ち良い秀作を披露している。
……しかし、正直なところ僕は大人な女子流路線を引き継いだと思われるカップリング曲「ディスコード」の方が好き。そして武道館単独ライブおめでとう。


キラキラチューン/Sabotage (通常盤)
原曲への愛やオマージュなんて欠片も感じさせない、悪ふざけ以外の何者でもないカバー曲。しかしそれこそが素晴らしい。愛だなんだのを持ちだして予定調和なカバーをするんだったらやらない方がマシ、という事をよく理解し自らの確固たる世界観に持ち込んだ前山田健一との確信犯的かつ挑戦的なシングル。
小沢健二の「強い気持ち・強い愛」カバーの時もそうだったけれど彼女らには良くも悪くも、スノッブでユーモラスな悪意がある。それは彼女らにアーティーな側面を見出したがるティピカルな音楽ファンを嘲笑うようで、正直なところ面白い。
両A面曲「キラキラチューン」も王道を“あえて”やってみました感が鼻に付くが、このポップ感には抗えないでしょう。



余白として、各一曲というノルマを課した上で、今年リリースされた興味深い女性アイドル・ソングについても12曲選出してみよう。もちろん個人的な偏愛に満ちて当然である。
それにしてもこのジャンルの上澄みだけをさらっているに過ぎない自分でさえベストを選ぶにあたって候補が多すぎて苦労するというのは、まさに闊達なジャンルを追いかけている実感を味あわせてくれる。
リストを作成している際にはこうした感触と共に、どのグループであっても自分の嗜好に合った曲が無視できないほどに存在する事を発見する。様々なクラスタへと訴求しうる多様性とも言い換える事が出来るだろう。
これはそもそもアイドルポップという概念が音楽上の何かしらの特徴を表現しうるタームではなく専らマーケティング・コンセプトに過ぎないがゆえに生じるものである事は明らかではあるが、このジャンルはそうした広い土壌があるのみではない。主たるマーケティング層が音楽に求めるものがそれぞれ異なるオタクなる人種(楽理に関心を示す人もいれば、ヨッシャ行ければそれで良いと思う人もいる)であるから、またそして彼らが市場を支えるからこそ、厄介な実験性なる言葉に引きずられた結果としてのデッド・エンドに陥ることなくあくまで大衆に開けたポップ音楽として成立出来ているのである。
まあタワレコ筆頭に数多の音楽メディアを眺めているとこうした二律性はそろそろ破綻しそうな気がするのだけれど、何事であっても終わる間近の水と油が同居する状態が一番面白いのは確かである。
ところで前田敦子『君は僕だ』は途方も無く素晴らしいがあれはアイドルポップスではなく、女優ポップスなのであえて入れません。


そんな感じでしょうか。最近、年間ベストやろうとすると結構疲れることに気付きました。みなさん良いお年を。