2012年ベストアルバム

上半期に挙げたやつは除外で10枚(+次点5枚と再発・編集盤5枚)。
今年もどうしようもない一年だったけれど音楽はなかなか良いものを多く聞けた気がする。そう、本当にどうしようもない一年だった。環境が変わったせいで作業には追われ、人間関係も新たになるわけでそれに対してタフに向き合っていかなければならないし、何より金が無い……。
慢性的な金欠の直接の元凶は握手会に本格的にハマってしまった事なのだけれど、当然それによって自分の人生の何かが救われるわけもなくむしろ握手すればするほど辛くなっていく。アイドルであっても人である以上それを意識してしまうと何も伝えられてないじゃないか、みたいな。もっと遊びとして割り切ればいいんだけれど意味もなく年齢だけ重ねてきたせいかそうスパっといくはずもなく本当に辛い。
この趣味は来年中に絶対にやめなければならないだろう。来年中というかもう今すぐにでもやめるべきだ。浮いた金でもっと有意義な事をしなければならない。英会話教室やジムに通うという選択肢はもっとも有力である……。
まあそれにしても来年も再来年も恐らくこのどうしようもない人生の続きだろうし、というか一生どうしようもない人生なのだという事はこの年齢にもなれば覚悟をしなければなるまいと薄々感じつつ、それでもこうやって音楽を聞いたり遊んだりする事でギリギリ辻褄を合わせていくというか……。


!!!そんな感じで選びました!!!

  • Kendrick Lamar / good kid, m.A.A.d city

Good Kid M.a.a.D City
自らのフェイバリット・アルバムとして躊躇いなく『The Chronic』や『Death Certificate』を挙げるKendrick Lamarは言ってみればヒップホップにおける再解釈の人である。過去のラップ・ミュージックの引用に満ちたスタイルもそうだが、ドレーやMCエイトの客演起用はコンプトンで育った一青年としていささかの浮かれ具合さえ感じさせる。だが、『good kid, m.A.A.d city』においてそうした引用は単なる趣味嗜好を博覧会的に展示するに終わらず、むしろ彼自身の生まれ育った時代・パーソナリティを彩る不可欠なアイテムとしてみずみずしくも息づいている。
ヒップホップとそれに纏わる自らという関係性において主客の転倒と言い切ってしまう事も許されかねない倒錯へ足を踏み入れようとしながら、しかし仲間や地元への思いと家族愛、若き日々の恋愛といったコンプトン・ライフの誠実な描写に支えられ、また交錯することで巧みな構成力と共に彼のリリシズムは一つの「物語」へと昇華せしめられている。
そう、あえて例えるならこのアルバムは『Straight Outta Compton』への二十数年越しの回答である。間違いなくマスターピース


  • The XX / Coexit

Coexist [輸入盤CD](YT080CD)
彼らが『Coexit』のインスピレーション元について同時代のインディー・ロックバンドやUKガラージダブステップエレクトロニカのアーティストと並べてStevie WonderAl GreenOtis Reddingといった大御所ソウル、そしてAlicia KeysGroove Theoryなど90年代〜00年代にかけてのR&Bを挙げていたのにはさもありなん、と思わされた。確かにこのアルバムは明らかにソウル・ミュージックやその伝統を継ぐブラック・ポップからの影響を感じさせるものである。ハウシーとはいえ、ミニマルでスカスカなビートと過剰なまでに感情を削ぎ落した音作りで何故ここまでソウルを感じさせるのか。
それは恐らく『Coexit』において提示されるのが「わたし」たちと「あなた」の関係性を強く想起させる密室的な音であり、歌である事が一つの要因であろう。そしてこのソウルはJames BlakeやBurialを引き合いに出すまでもなくアンダーグラウンドでメランコリックな、暗闇のものである。だがここにはアーティスティックな自意識も、都市における悲痛な詩情も存在しない。代わりに彼らは身一つで語ろうとする態度と、言葉をどれだけ費やしても何も語ることの出来ない空虚さを痛々しいまでに露わにする。


  • Mala / Mala in Cuba

Mala in Cuba [解説付 / ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC348)
素晴らしい音楽は得てして、挑戦と成熟のせめぎ合いから出来ているものである。そしてそれにロマンスが加われば最高。
『Mala in Cuba』はまさにそうしたある種の衝突・軋轢の中にのみ生まれる音楽であり、ここでダブステップオリジネーターキューバ音楽と積極的に交わることで、ロンドンのアンダーグラウンドには無い類の深い美しさを手に入れている。
個人的なイメージとしてダブステップは夜を、キューバ音楽は昼間から黄昏時にかけてを想起させるのだが、このアルバムは夜の緊張感に満ちた妖しさと太陽の柔軟な温かみそのどちらをも感じさせる非常にスリリングなものだ。先鋭的・実験的な何が起こるかわからない魅力と言うよりは響き渡るベースとリズム、美しいラテンの楽器といった音の美しさに重点が置かれており、非常に品良くまとめられているため繰り返し聞けた。「ワールドミュージック」なる言葉に未だに囚われている人達にも開いた耳で聞いて欲しい。


100年後
Ogre You Assholeは今作で『homely』というサイケデリック・ロックの一つの到達点からあっさり距離を置く。
ゆら帝フォロワーと括られるのを恐れないかのような中村宗一郎の存在感は今作でも健在だが、サイケデリックに大きく傾いていた前作へチルアウト感覚やAOR、あるいは「すべて大丈夫」〜「黒い窓」に特に顕著であるシニカルにしてポップな虚無感を持ち込んでおり、様々な要素に引き裂かれながらも奇妙な安心感が通底して横たわる彼らの『100年後』を提示することに成功している。「ロープ」のような決定的なトリップ・チューンの不在はアルバムの統一感という観点からはむしろ功を奏しているかも。


  • Shed / The Killer

Killer
Berghainの第一人者は本作において、自らが才気あるDJであるのみならず素晴らしいトラックメイカーでもあるという事を証明しようとしている。
『The Killer』で展開されるトラックは彼の作風からすれば特に斬新というわけでもない。とはいえハード・テクノなるどうしても一辺倒になりがちなジャンルにおいて、アンビエントブレイクビーツなどを投入しながらきちんとアルバム通して聞かせるという構成力の妙、またダンス・ミュージックにおける機能性と実験性の兼ね合いについての問題意識を忘れずに、しかしそこでバランス感覚を失する事のない、繰り返しの視聴に耐えるクオリティを維持している事は評価されて然るべきである。
デトロイト・テクノダブステップからの影響を見事にベルリン・サウンドへ落としこむと同時にダンス・ミュージックかくあるべしという強い心意気も感じさせる頼もしいアルバムだ。


  • cero / My Lost City

My Lost City
ceroというバンドは小沢健二中村一義ムーンライダーズカーネーション、あるいは(((さらうんど)))……すなわちポップスに対する批評精神を顕わにしてのみ得られる、ねじれた強度を越境的な無国籍=多国籍ポップとして鳴らすバンドの系譜にあると言える。
そうした系譜の中で彼らの大きな特徴を一つ挙げるとするならば、それはアルバム単位で徹底的に作りこまれたフィクショナルな世界観であるだろう。『My Lost City』においてこの情感豊かなアイディアの数々は歌のみならずミュージカル調であったりポエトリーであったりと様々な方法での表現をもって支えられていくが、最後の「わたしのすがた」に達する時、その世界は現実とフィクションの境界を融解しながら着地する。
『My Lost City』という世界へ想像を巡らす事も、ポリリズムの微妙な差異に着目する事も、音の厚みに感嘆する事も、美しいメロディーに耳を澄ます事も、とにかくどんな楽しみ方(言うまでもなく批評誘発性も抜群に高い)に対してもオープンな素晴らしいポップス。


  • Karriem Riggins / Alone Together

Alone Together
まさにデトロイティッシュなビートテープ・アルバム。「J Dilla以降」というバズワードを牽引するのはFlying LotusやThe Gaslamp KillerといったLAビート・ミュージック・シーンの面々だが、Karriem Rigginsは彼らとは異なる解釈によりつつもむしろ直接的にJ Dillaの影響を受けている一人でもある。
クオンタイズされないビートの揺らぎと、90年代からの連続性を感じさせるアンダーグラウンドな質感、それに自身のジャズドラマーとしての絶妙なリズム感覚を組み込ませる事によって本作『Alone Together』は高い完成度と同時に、とても愛らしい小品集といった印象をも残す。予想を裏切らない作風は「よく出来たアルバム」を超えるものではないとも言えるのだが……しかし、僕はこういうアルバムを好きにならずにいられない。
あるいはヒップホップにおけるAndres『II』と言ってもいいだろう、彼の地の音楽性の豊かさが垣間見えるなんとも素敵なアルバムだと思う。


  • ERA / Jewels Deluxe

JEWELS DELUXE
ERAはストーナー・ラップに通底するゆるい感性をもって東京のありふれた夜を描写する。そしてその洗練された筆致には都市生活者の日々を彩る多くの要素が盛り込まれている。友情や甘酸っぱい恋愛から内省や自意識が展開されたかと思えば、ハードコアを出自とする彼らしい反抗心や都市への愛着が展開され……そうした様々な切り口からなるラップを通して、都市の夜は再び浮かび上がる。
この『Jewels』はストーナーの煙たさよりも、甘いシロップのようなスクリュー感覚やサイケデリアといった側面が強調されているアルバムでもある。イリシット・ツボイプロデュースの「Get A」を頂点とするこのアルバムにおけるサイケデリアはあたかも白昼夢を徘徊しているような甘酸っぱくも眩いきらめきを放っている。ERA本人の咳止めシロップを飲んだかのようなかすれた声と独特のタイム感、キャッチーなフレージング・センスはどこか人懐っこい魅力を持ちつつもそうしたメロウネスを昇華していく。
明らかにタフなこの国で生きるエヴリデイ・ストラグルの若者たちが甘酸っぱくもメロウに生きるためのサウンド・トラック


  • Andy Stott / Luxury Problems

Luxury Problems
評して「Theo ParrishSadeの間」との事だがこれは……。Basic Channel以降脈々とアップデートされたりされなかったりのいわゆるダブテクノといったジャンルにAkufenに代表されるエレクトロニカカットアップを取り入れたのが前作であったとすると、今作においてはビートダウンやディープハウスを結び付けたという事だろうか。
とはいえ一般的に予想されるハウス「らしさ」はここにはない。路上の愛や汚れ、肉感性はあくまで排除されており、前作から引き続く永遠に終わらないのではないかとも思える蠢くベースラインによるマッシブな音圧とダビーに加工された寒々しく抑圧的な音像は、むしろ異様なほど闇雲な圧迫感と焦燥感をかき立てる。そんな中でTheo ParrishSadeを思い起こさせるのがアルバム全編に渡ってフューチャーされる女声ボーカルである。執拗にループされては立ち消えていくこの幽玄な声は幻想的でメロディック、まさに「Luxury」といった形容がよく似合う。
このビートと声の緊張関係が今作を単なるダブテクノで終わらせず、ダークアンビエントやハウスなどの要素を接合させ、あるいはそうしたジャンルを物ともしない力強さを与える事に成功している。


  • Killer Bong / Sax Blue 2

今年一番聞いたMIXはこれかなあ、多分。ミニマル〜エレクトロニカ〜ヒップホップと横断していくものの難解さは皆無で、ドロっとしたダブの質感と黒光りするジャジーなメロウネス(なんと販促らしい文章だろうか)が全編にわたって繰り広げられている。
繋ぎによってジワジワとグルーヴを作っていくタイプというよりは選曲の妙で聞かせるタイプだけれど、それにしても情感豊かな音楽というか。アガりきらない美学は一貫している。『Sax Blue』も良かったけどこちらを選んだのは後半のヒップホップメインの選曲があまりにツボだったので。




New CountryChannel OrangeSwing Lo MagellanReloadedR.I.P.
次点はまず、揺らぎのファンクネスをシニカルにすり抜けていくQN『New Country』、Kendrick Lamarと双璧を成すであろう今年の黒人コンシャス二大絵巻の一つFrank Ocean『Channel Orange』、アート・ロックの佳作でありながら歌ものポップのような小気味良さが清々しいDirty Projectors『Swing Lo Megallan』、ニューヨーク・アンダーグラウンド・ヒップホップのスリリングな洗練を渋く聞かせるRoc Marciano『Reloaded』に諧謔的ユーモア・センスと電子音楽の可能性を拡張しようとする開けた好奇心が結びついてしまった現実逃避あるいはバッド・トリップのR&BコンクレートActress『R.I.P.』辺り。



Lost TapesBiokineticsD'Ya Hear Me! : Naffi years, 1979-83 ドゥヤ・ヒア・ミー! : ナッフィー・イヤーズ, 1979-83Lee 'scratch' Perry Presents Candy MckenzieJourney Of The Deep Sea Dweller III
再発(もしくは編集)モノだとこの時期のCanが3CD分だけ聞けるだけで十二分にありがたいCan『The Lost Tapes』、ミニマルダブ・アンビエント・ドローン、といった要素が盛り込まれている今まさに聞かれるべきPorter Ricks『Biokinetics』、この時代におけるロンドンの若者たちによる、ポスト・パンクの信念に裏打ちされた美しさを強く感じさせる『D'Ya Hear Me!:Naffi Years,1979-83』、Black Ark最盛期の途轍もなく甘い陶酔『Lee "Scratch" Perry Presents Candy McKenzie』そしてDrexciya『Journey Of The Deep Sea DwellerI〜III』などをよく聞いた。



どうでもいいけどいざ選んでみると最大公約数的すぎて自分がビックリした。シングル編も多分やります。ペイッッッ

思っている事をワァーっと書いてみよう

何かを喪うという事は突然に起こってくるのであって人間はそれに対してそのままじゃ無力というか、少なくとも何らかの区切りというものがなければ実際に起こったことへ心が転化しにくい性質を持っていると思う。だから葬式とかお別れの会っていうのが太古の昔から脈々と存在し続けて今に至っているのであって、すなわち喪う事の対処法としては、全力で思い悩むことも重要だけれど、それだけでなく喪った事を思って、それを語ったり書いたりする事によって心の落ち着かせどころを探っていくというのが有用なんだろう。まあこんなもんだと自分の思いを推し量って、位置付けることによって気分も幾分かマシになるはずだ。そういった自分に対する処方箋として、僕はひとまずこの事については思って思って思い尽くしてしまったので、あとは少し書いてみたい。
「喪う」というのは趣味の悪いクリシェではなくてアイドルとしての光宗薫という存在に対する自分なりの真摯な対処の仕方だ。現実の光宗薫さんはまったく、これからも他のステージで活躍していく事を願ってやまないし、多分そうなると思う。でもアイドルとしての彼女はもういない。そこに僕は喪失を感じるし、だから悼む必要があると考えた。で、こうした作業はまったく個人的な行いなんだけれど、まあブログなんて全世界に公開される媒体に書いておいて、個人的も何も無い。そこには見てもらいたいという気持ちがやっぱり出てきているのであって、個人的ならば本来チラシの裏に書けば良いんだろうけどそこはなんというかモチベーションの問題というか同じグダグダとした思いつきでもチラシの裏に書くのとは違うというか……。まあ許していただきたい。
しかし……アイドルが一人職を辞したからと言って、論旨も何も無く、またユーモアやシニカルさで飾ることも出来ずただただ思っている事を愚劣に醜悪に吐き出したくなる気分になって、しかもそれを実行に移してしまうのはアイドルというものに移入しすぎだと自分でも思うが、仕方ない。少なくとも、今はそこを仕方ないで済ませてしまいたい気分だ。


アイドルを応援するということは本質的に、倫理的な悪なのではないか。そんな事がいわゆるアイドル論者という人達によって、どれほど昔からアイドルの「記憶」に即して語ってこられたのか、僕はあまり興味が無く知ろうとする気にならないのだけれど、少なくとも現在において特にAKB48グループが提唱する、露悪的なまでの(それは「ガチ」という言葉でも昇華されない程度の)競争原理とそれに追い込まれる女の子の実情をすらエンターテインメントに仕立て上げてそれを楽しむという消費スタイルはやはりやり過ぎなのではないかと論じるまでもなく常識的な感性(あえて言いますよ)をもって思う。応援応援って騒ぎ立てることで正当化した気分になってるけども結局のところ彼女らを追い込んでいるだけなのではないか?と後ろめたさが常につきまとっている事を否定出来ない。誰がどう考えても10代(には限らないか)少女をフィジカルにしてもメンタルにしても追い込んでいくのは倫理的に正しくないし、その点でやはりアイドルを「応援」する事の座りの悪さを感じずにはいられない。しかし、彼女らを一概に「被害者」で僕らを「加害者」と断じるのにもあまり与せないところがあって、それはやっぱり応援というのが究極的にはお金を出して彼女らの目指すところに貢献しているわけで(無論反吐が出るほど醜い論調だけれど、間違いではないとも思う)それだけで解決されるわけでは無いにしろ、少なくともナイーブに加害者被害者の二項対立を言い立てるのではなくて、利用しつつ利用されつつのクールな共犯関係を結んでいけるのではないか、と考えていた。でも多分、そんな事はどこまでいっても1人のオタクが勝手に考え込んでいる願望であって、金を出すということが「応援する」ことであってそれが彼女らの足しに幾分かはなったとしても、それを軽く飛び越えるほどの負担を僕たちは課しているんだろう。あとはいつ閾値を超えるかって問題にすぎない。そんなやるせなさを省みていくと、アイドルなんて職業はファンだの運営だのを肥え太らせるだけであとは何の意味もないしこの世に存在しない方がいいんじゃないかと少し思ってしまう。


アイドルというのは夢(クリシェとしての夢ではなくて、僕たちが現に見る夢)とか映画のようなものだと思う。断片化された彼女についての情報を編集し、繋ぎ合わせる事によって本当は存在しない虚像が浮かび上がってくるというのは映画に似てるし、見ている者がその場面に同化し尽くしたのに後には何も残らないのは夢に似ている。僕はでも、アイドルの本質が虚像であり、夢のようなものであっても自らをそうした虚像として消費されるのを拒む(もちろん、虚像を作り上げる事に徹底するというのも1つのアイドルであり、むしろそれが正道だ。彼女らの事を僕は本当に尊敬する。)、言ってみればキャラ消費には収まらない自意識のようなものを意図的に滲み出させる女の子の事が猛烈に好きだった。倫理的な後ろめたさに少しでも抗いたかったからだろうか、わからないけれどとにかく好きだった。AKB48グループに何人かそういう、いわゆる(あえてこの言葉を使おう)推しメンがいて、そこにはキャラとして消費されるのを拒みながら自分を出していく慎重さに満ちた、しかしダイナミックな魅力があった。特に光宗薫さんって人は意図的に自意識みたいなものを御しきれない自分を出しているのかなんなのか、悩みながらも前へ進もうという、エリート染みた腐れスノッブ耽美派が喜ぶような(最悪だ)葛藤としかしAKB48的というか今の大多数の日本人が喜ぶ躁病のような(これは光宗薫さんの体調不良に対する悪趣味な暗喩ではないので・念のため)テンションによる頑張ろう頑張ろう!という姿勢を貫いていく態度があって、そこを両立している所にアンチ・エリートの包容力というか彼女自信の誠実さみたいなものを感じさせてくれる存在だった。モデルとアイドルというジャンルを越境する在り方それ自体も素敵だったけれど僕がクールだなと思うのはむしろそうした彼女自身の態度にあったと思う。無論、突き詰めれば、それももちろん断片化された情報を僕が勝手に自分で組み直して受けた印象であって、現実の彼女とは齟齬があるんだろうけど。しかしアイドルというものは元来そういうもので、現実の彼女らと僕たちの共同作業的な意味合いが多分に含まれているものであって、すなわち彼女らの小出しにする統制されたイメージを編み上げていく事にその本質がある。その結果、イメージであるから消費する側の観客たち一人一人に彼女ら一人一人についてのアイドル像みたいなのがあって、それは他の人と重なる事はあっても同じになることは決して無い。で、そうした自分の考える他人と他人自身って関係は現実の人間関係であっても似た側面があると思うのだけれど、それとアイドル消費が決定的に異なるのは僕たちがお金を媒介した、限られた見方しか出来ないことで歪められたイメージを創りだしてしまう点にある。すなわち結局の所一方的な押し付けにすぎなくなってしまうということだ。それがアイドル消費の根本的な歪みであり、ひいては倫理的な悪を裏付ける根拠なんだろう。


光宗薫さんはAKB辞めても普通にやっていけそうだとか、辞めた方が今後のためにいいんじゃないかと言うのは簡単だけど、それはアイドルという枠に凝り固まっている乱暴な話であって、結局のところそれに囚われている限りでは被害者/加害者の構図の中でいる事しか出来ないだろう。物事を横断するスリリングな試みに挑戦しようとする人に対してアイドルといった枠(というかアイドルファンの社会やルール?といったものだろうか)がどこまで柔軟になれるか、アイドルに収まらないような人がアイドルをやるという事で試されていたのは結局のところアイドル・ファン自身だったんじゃないか。僕たちはその挑戦に対してまったくと言っていいほど良い結果を提供することは出来なかった。これは本当に、真摯に考える必要があると思う。でも真摯に考えると行き着くところはアイドルを「応援」することの虚しさとどうにもならなさだ。何度も言うが光宗薫さんの持つ魅力というものはクールで、人を人として、アイドルとしての決まりきったパターンに陥ることなく逸脱しながらのファンとアイドルという関係を築いていけるのではないかと僕は思っていた。とはいえ、当然の事ながら僕はアイドル・ファンだがアイドル・ファンは僕ではない。他の人とはどうやら違うものを見ていたようだ。これは責任転嫁とかそういうのじゃなくて、アイドル・ファンという存在に対する見込み違いである。僕の夢想もつまるところは、自分に都合の良いだけの夢にすぎなかったということだろう。後には何も残らない。

FREEDOMMUNE 0<ZERO> A NEW ZERO 2012 雑感

FREEDOMMUNE 0<ZERO> A NEW ZERO 2012を見に幕張メッセまで行って来ました。全体的にはPAが貧弱すぎたりいろはすが高かったりクロークが高かったりとヘイヘイと思うところはナキニシモアラズでしたが、まあ無料でこのメンツを見れるという事に比べればまさに瑣末なこと。なんだかんだで非常に楽しいフェスでした。以下見たアクト毎に雑感。21時過ぎから入ったのでそれ以前のアクトは見てないということとちょっと見ただけのアクトも適当に書いてるという事を付け加えておきます。

入ってうるさい音がガーガー鳴ってると思ったらメルツバウが演奏してました。リズムやメロディーを頑なに否定してあくまで音そのものを鳴らすのみのストイックな演奏。音の粒を聞いてるような繊細さと暴力性を併せもつ……と言うかまあ、これぞジャパノイズと言うべき筋肉質な音でした。カッコいい。

ハードな展開と裏腹の非常にフレンドリーな質感で非常に気持ちよく踊れました。ジャンルレスというか縦横無尽な選曲も面白くて、終盤にはこんな飛び道具もかけてて笑ってしまった。

  • 不失者

正直なところ即興それ自体はそんなでもないかなと思わされつつも、抑圧と解放、ロックとアヴァンギャルド・ノイズを行き来するような展開とヘヴィでソリッドな音そのものにヤラれてしまいました。こういうのは見かけとか長くやってることもパフォーマンスの内だなとも思いつつベストアクトの一つ。

  • Simi Lab

やはり彼らはラップそのものにグルーヴがあって「踊れる」音を繰り出しているためかダンス・ミュージックのアクトに囲まれても音に違和感が無かったです。同時にヒップホップそれ自体の面白さも当然に持ち合わせているところが良いですね。正直なところQN脱退はやっぱり大きいなと思わされつつも(これまでのライブではオムスとディープライドの声質が似てて、それに切り込んでいくQNの印象が強かった)それを克服していこうとする姿勢がパフォーマンス面で感じられてたのであとは音源としてその結果をリリースしてほしいところ。

  • DVS1

お手本のような硬くて重い、強靭なハード・テクノ。こういうサウンドはドイツのお家芸かと思ってましたがUSのDJなんですね。音の抜き差しが非常に丁寧でさすがベテランといった趣。

重い四つ打ちに綺羅びやかな90年代シンセというまあ特に斬新というわけではないプログレッシブトランスでしたが彼は飛び道具としてのヒット曲を山ほど持っているわけで……。合唱しながらそこら中で盛り上がってる光景はそう見れるもんじゃないなーと思いました。正直TKの曲は逆シャアのアレしかよく知らない(あとサヴァイヴァルダンスのやつ)んですが大量のハードシンセをあっちこっちで使いまくってビキビキの音を出していく小室哲哉、という図は派手で見て良かったです。

なんだこいつらマジでやべえというのが第一印象。日本=辺境なドロドロ歌謡曲をロクに繋げずにグダグダと流すことの(多分)計算されたマジックによってかなりのバッドトリップに誘い込まれました。たまにビートが入るとShackletonなんかを思い出す、LRチャンネルの狂ったポリリズミックなプレイになっていて半端でない酩酊感。

幻の名盤解放同盟のドロドロサウンドが終わって瀧見憲司が最初に流したのがこれ。

一気に目を覚まされてあとは緩やかにアゲていく作りこまれたミックス。いつも通りと言うか非常に良かったのですが壁を隔てたステージではバッキバキのハードテクノを流していたので音漏れが彼の隙間を活かしたミックスの隙間にガンガン入り込んでいったのが少し辛かったです。

名曲E2-E4完全再現。特に思い入れがあるわけではないのですがこの曲はやはり聞いとかないと……と思って行ったところ30分くらいミニマルな展開のシンセで気持ちよくカラダを揺らせながらもそろそろ辛いかなっと思うところでゲッチング先生の泣きのギターが炸裂。結局最後までどっぷりと浸かれました。アンコールではAshra『Midnight on Mars』を披露したり新曲?を披露したりと十二分に堪能。イイ締めを迎えることができました。



というわけで遅く入ったのと随所で寝てしまったので見れたアクトは少なかったのですが、貧乏性故いつもフェスに行くと払った金を取り戻そうと躍起になってしまう自分にしては割とゆるくアクトをまわれたのでそこだけでも良かったです。タダ最高。
あとTOKYO IDOL FESTIVALの1週間後にドミューンフェスがあるということで、掛け持ちしてるの俺くらいだろwと思ったのですがまったくそんなことはなくむしろ客層被っているのではないか?と思いました。ファッック。

TOKYO IDOL FESTIVAL 雑感

TIF行って来ました。見たアイドルと、印象に残った(パフォーマンスの出来不出来というか、自分の体調、そして見た場所・時間の方が影響してそう)アクトについての一文。


4日

アッパーカットが聞きたかったので行ってみたらさすがにパフォーマンスが素晴らしい。体つきが鍛えられてるな〜って印象でとにかくパワフルでした。結局両日通じて一回しか見れなかったのだけれど彼女らはもっと見たかった・・・。カバー曲も良いしこれからも注目していきたいです。佐保明梨さん。

  • Cheeky Parade○

新曲が全部良い。ブロステップ調のイントロが面白かった(笑えた)。溝呂木世蘭ちゃん。

炎天下というロケーションも相まってとてもイイイキフン。MCが面白かった(小学生並みの感想)。朝日奈央さん。

曲数は少なかったけれど2ヶ月振りの彼女らがもうまるで生まれ変わったかのような素晴らしさを纏っていたのが野外の近距離でわかったので十分です。新衣装もめちゃくちゃかわいかったな。。全員大好きです。

後ろの方からだけど雰囲気と曲がさすがに素晴らしかった。好きになりかけた(次の日好きになる)。

曲が強烈に心に染みて良かった。

最初はTIFまで来てSKEなんて見ないでしょ笑と思ってたけどなんやかんやで結構前の方まで行けたので興奮しながら見てしまった。シングル曲連発の一見さん(俺)にもわかりやすいセットリストとアッパーなダンスが相まってやっぱり売れるのは理由があるなと思った次第。……というか一番楽しかったかもしれない、少なくとも大矢真那さんと僕で最高の夏を過ごしてしまった実感はある。

生バンド+夕暮れ+この4組ということで最高でした。全曲言うまでもなく、本当に比類なく素晴らしかったけど「眩暈」と「ベリシュビッッ」は特に。

これもロケーションが良い。夜の屋上とゴージャスなメンバー+衣装とイイ選曲で一日の締め前に最高でした。

ちょっと苦手なイキフン(とオタクが怖い)ので好きにはなれなかったんですがそれをぶち破る面白さがあったなと思いました。『Sabotage』とかカバー曲を「愛」という言葉を持ってきて中途半端に演じるのではなくそんなのかけらも見せずに自分たちの世界観に持ってくるところがクールでカッコイイ(褒めてます)。


5日

日本語ラップのプロパーとして色々思うことはあるのですがそういうの抜きにするとアイドルポップにヒップホップ的な縦のノリを導入してるのはやっぱり面白いと思います。でもラップって結局個にフォーカスする表現なんだから一体感という意味ではラストでやってたポップスサンプリングしてそのまま流してみんなで踊るっていうのが一番良かったような気がする。

Twinklestarsテクノポップ的に味付けしたような、超かわいい女の子の超かわいいアイドルポップ。文句の付け所が無いです。

  • Oh☆Campee
  • INK1・2・3ガールズ○

なんだこれ?アントニオ猪木のサポーターアイドル(うろ覚え)を自称する集団。なんだけど曲がヤバくて普通のアイドルポップスにアントニオ猪木の名言サンプリング(多分クリアランス降りてない)がもはやナードコア的アプローチなのではないか?というくらいにその構造と無関係に唐突に挿入されるという意味不明なもの。狂ってるというか狂いすぎてる。

アイドルポップスとメロコア/パンクの共通する魅力をガッツリ押し出しているというか。前に一回見た時より全然良くなってて驚いた。『例えばのモンスター』がメロコア感バリバリで最高。

若さの刹那感をバリバリに押し出しているグループだなとは思ってたけど『WONDERFUL JOURNEY』の万能感は最高に泣けた。本当に素晴らしい。

ラスト。夜に合うような曲をしっとりとしたパフォーマンスで素晴らしく披露。それにしても2ヶ月を経てグッと大人っぽくなったというか表現力が鍛えられていて今では、彼女らは望む何者にでもなれるのではないかと思わされました(マジ)。


去年みたいにどこで何やってるかわからない状態では無かったもののタイムテーブルがブチ壊れたり屋上に飲み物が見当たらなかったり相変わらず運営はちょっとなんとかしてくださいといった感じでしたが今年も最高の夏を送る事ができました。来年も(不幸な事にアイドルに飽きていなかったら)行きたいです。

2012上半期ベスト

シングル、アルバム問わず。原発事故に際しての東電並みの適当な基準であいうえお順の10枚選出。
Street Halo / Kindred [解説付・国内盤] (BRC320)
Burial / Street Halo - Kindred
『Burial』『Untrue』でメランコリアに満ちたダブステップを提示し、Four Tetとのコラボレートでダブステップのその先をハウシーな展開に落とし込んでいったBurialの新作はガラージ・2ステップのくすんだ変容系といった趣。ダークに鳴り響く音像の中でソウルフルに現れては消えていくピッチシフト・サンプルは健在だが、そのリズムパターンからはダブステップの狂騒から一歩引いた感すら受ける。ザラついたアナログの質感と反復のカタルシス
Money Store
Death Grips / The Money Store
昨年出たMixtapeは怒りとフラストレーションと憤怒とストレスとイラ立ちを一気呵成にブチ破る爽快でハードな作品(あのストレートな怒りの表現はラップ・ミュージックやポスト・ハードコアというよりもっと遡ってハードコアを聞いている感覚に近いものがあった)だった。今作においてもその怒りは減ずることなく、しかしながら同時にインディー・オルタナティブなセンスをより強調することで、彼らの音楽的素養が整合的に押し出されている。ライブが見たい。
Don't worry be daddy
ECD / Don't worry be daddy
ECDはアル中を乗り越え結婚し子供が出来たという自身の日々についてを――例えば「貧乏ながらもやっと見つけた幸せ」のように――安易な物語として消費されることを徹底的に拒む。5時に起き仕事や育児など日々の家事に忙殺され、時には過去を振り返りつつ空いた時間にラップをして21時に寝る。基本的にラップのトピックはただそれだけだ。しかし虚飾やハッタリを排された、研ぎ澄まされたリリックを臨場感たっぷりに語っているからこそ、そして日々の暮らしを――我々と同じように――タフにサヴァイヴしていく姿勢が明確な彼だからこそ、本作のアルバムタイトル『Don't worry be daddy』が強い説得力をもって迫ってくる。ここでECDは徹底的な内省化を図ることで、逆説的に強力な批評性を獲得しようとしているとも言えるだろう……。といったようにどうしてもリリックにフォーカスせざるを得ない作品ではあるが、音とラップはUSからの影響を十分に飲み込んで咀嚼しており、そこだけ取ってみても面白い。イリシット・ツボイの狂気!!!!
Seeds
Georgia Anne Muldrow / Seeds
いやはや、こういうアルバムは好きにならずにいられない。肥沃な音楽的バックグラウンドを有するソウルシンガーGeorgia Anne Muldrowと、ジャズやファンクへの一筋縄ではいかない愛情をビートに変換し続ける異能の多作家Madlibとのタッグ作品。Madlibが70年代ソウルはもちろん、スピリチュアルジャズやフリージャズの今尚通ずる先進性を改めて咀嚼し、ヒップホップ以降のセンスで捉え直すのを彼女のソウル・シンガーとしての素養が突き刺すような今作は実験精神と歴史への参照、そして自らの立ち位置への自覚が調和する美しいブラック・ミュージックである。懐古趣味的ではあるがサイケデリアの迷宮に踏み出している点も良い。
IN MY SHOES
SALU / In My Shoes
BACH LOGICを後見人として鳴り物入りでデビューしたこの新人の1stアルバムについて、Amazonのカスタマー・レビュー(くらいしかネット・ユーザーの意見をまとめて見ることの出来る場が無いのは大きな不満ではあるが)を見ると賛否両論であり、批判の矛先はどうもこの作品が「ヒップホップではない」という点――それはこのムラ社会における紋切り型の批判である――に集約されているようだ。しかし、この作品を語るのにヒップホップといういささか古びた物差しだけを持ち出すのは妥当でない。すなわちこの作品は……アーバン・ミュージックだ。当然ながらヒップホップもここまで細分化した以上アーバン・ミュージックとそうでないものに二分されるわけで、特にこの国のラップ・ミュージックは伝統的にローカルな感性でもって自分自身にフォーカスしていく作品が主流であったように思える。そうした中でアーバン・ミュージックとしてのラップ・ミュージックを意識的に作り上げた一つの先駆的結果がSEEDASEEDA』であるとすれば本作はそれに続く――そして作家性に満ちた抽象化とトラックの充実度でそれを上回る完成度を得た――アーバン・ミュージックである。現行USシーンと共鳴するラップスタイルとストリートと言うよりは一人の都市生活者の感性で描写されるリリックはOHLDの、ブラックネスをポップに消化した素晴らしく哀愁に満ちたトラックとBLのトータル・プロダクションの巧みさによってこれから先の、一つのメルクマールと成りうる強度を獲得している。
Music for the Quiet Hour/Drawbar Organ
Shackleton / Music For The Quiet Hour / The Drawbar Organ EPs
ベース・ミュージックとしての機能性と、ハードミニマルの音センスに加えてアフリカン・ビートに傾倒していたShackletonだが、今回のアルバム(とEP集)において彼は、自身をダブステップと結びつけていた太いベースラインを若干後退させ、またテックな音色を緩やかなものへと変化させることでオカルティックな上モノと執拗なまでのトライバルビートによるポリリズムをより押し出している。その結果は……酩酊アトモスフェリック・トライバルビートが縦横無尽に左右のチャンネルで蠢く、すなわち素晴らしく気分が悪くなる良質のバッド・トリップミュージックとして実を結んでいる。
Dopesmoker
Sleep / Dopesmoker
リイシュー盤、遅ればせながらようやく聞いた。非の打ちどころのないストーナーメタルにして、至高のロックン・ロールアルバム。
Hakoniwa
キエるマキュウ / Hakoniwa
USヒップホップが00年代においては先の10年で培われてきた定型を如何にして打ち破るかの挑戦をしてきたものと考えると、我が国におけるいわゆる「ジャパニーズ・ヒップホップ」は90年代のヒップホップこそがヒップホップという音楽の完成形と信じる者にとってあるいは正史と言えるものではないだろうか。このアルバムにおいてそうした価値観は貫徹されており、ゴールデンエイジ・ヒップホップの手法を受け継ぎながら脈々とアップデートしていく事でも素晴らしい作品というのは出来上がるという事を証明している。90年代直系の音だと確信させつつも未だ今日性を持ち続けようとする姿勢は素直にカッコイイ。
おいでシャンプー
乃木坂46 / おいでシャンプー
過去レビュー参照。『偶然を言い訳にして』という比類なきアーバン・ポップ・ソングをカップリングにしているところがなんだか心憎いものがある。当ブログでは市來玲奈さんと橋本奈々未さんに引き続き注目していきます。
Limited addiction(DVD付A)
東京女子流 / Limited addiction
過去レビュー参照。しかしこのアルバムを引っさげて行われた野音でのツアーファイナルは、個人的に久しぶりに5人の完全なパフォーマンスを見ることが出来たのもあるが、バンドのファンキーな演奏や練られたセットリストにロケーション、例の発表もあってちょっと込み上げてくるものがあった。つい最近出たシングル『追憶 -Single Version- / 大切な言葉』は正直な所今の彼女らの期待値にはそぐわないものといえ、まあ「大切な言葉」はハッピー且つパワフルな女子流ポップスとして一定の評価を与えるべきクオリティか(あと、イントロがトクマルシューゴっぽくて良い。)。



次点十枚としてはGangrene / Vodka & Ayahuasca, Cloud Nothings / Attack On Memory, Wiley / Evolve or Be Extinct, A$AP Rocky/ LiveLovePurple, Lil B / Gods Father, Dean Blunt & Inga Copeland / Black is Beautiful, (((さらうんど))) / (((さらうんど))), 大谷能生 / Jazz Abstractions, 田我流 / B級映画のように2, Kensei Ogata + Osamu Ansai / Tonight, Flightといったところでしょうか(なんかtwitterのbioに好きなバンドを羅列する人みたいになった)。そういうわけで下半期も楽しみです。

Hyperdub Episode 1@代官山UNIT

最も重要な(ポスト)ダブステップレーベルの一つ、Hyperdubのレーベルショウケース・イベントに行ってきた。
広がりを見せるダブステップ概念だがそのレーベルを思いつくままに挙げてみるとMalaのDEEP MEDiにScubaのHotflush、PeverelistのPunch Drunk。そして、なんとも奇妙な音楽をリリース/リイシューし続けるHonest Jon's……とにかく枚挙に暇がない。今とりあえず挙げてみたレーベルだけでもそれぞれ独自のコンセプトと音世界を保持しているのであって、こうした事実はダブステップ――そしてその発展系――の間口の広さを表しているとも言える。そんな中でHyperdubはジャマイカサウンドシステム文化から影響を受けた英国エレクトロニック・ミュージック――それはダブやレゲエから始まり、ジャングルを通過し、グライムやダブステップあるいはファンキーへと受け継がれる――における突然変異種をそのコンセプトとしているようだ。なるほど、確かにHyperdubが2009年にリリースした、今のところ唯一のコンピレーションである『5years of Hyperdub』を聞いてみるとこの時点で既にダブステップと一概に括るのは困難である。むしろ前述したエレクトロニック・ミュージックの中でも様々なジャンルがねじれて、混合され、再び呼称のない音楽へ戻っていくその瞬間を捉えたような印象を受ける。これをポスト・ダブステップと言っていいのか。例えばブルー・アイド・ソウルにベース・ミュージックを落とし込んだJames Blakeやダブステップからベルリンテクノを経て、今やレイヴ・カルチャーにその歩を進めようとするScubaなどに比べると彼らは(ダブステップ以前の)ルーツに忠実である。じゃあ、プレ・ダブステップ?(……)。とにかく、今回のショウケース・イベントではそうした、彼らのルーツへの敬意とまた突然変異種としてのベース・ミュージックを十二分に味わうことが出来た。


まず、Saloonで流れていたJukeセットで体を暖めてからHype Williams。彼らがHyperdubからリリースした『Black is Beautiful』(なんと人を喰ったタイトルといいますか……適当すぎるでしょう)はスウィートな(しかしスクリューを通過した、不健康さに満ちた)ポップに、錯乱したダブやディスコと歪んだ女性性を混ぜ込みローファイに仕立て上げた、Throbbing Gristle……にしては知性というか品が欠けている気がする。とにかく何処までシリアスで何処までがギャグなのか全くよくわからない作品である。それでも過去への参照というものを確かに感じさせる辺りがHyperdubがサインした一因なんでしょう。
ライブ自体もスモークを一寸先も見えぬほどに焚き、銃声やテレビのナレーションなどチープなサンプルを延々いじりながらひたすら重低音を響かせつつ――彼らのユーモアセンスなのだろう、もしかしたら嫌がらせなのかもしれない――、たまに思い出したかのようにダンス・ビートが流れ出し、Inga Copelandがポップに歌うという、まさに彼らのジャンキーな感性をそのまま発露したようなものであった。つまり、ドローンの様な重低音を数十分響かせた後、唐突にダンス・ビートが流れても踊るのが馬鹿らしく思えてくるのだ。しかし決して退屈なものではなく、OPNなどのインディーシンセウェイブなどとも通ずる感覚は過去への参照と直感をただ垂れ流す、それだけでは終わらせない新鮮さがあった。


そして最も期待していたKing Midas Soundだが、果たしてその期待は裏切られることはなかった。彼ら(というかKevin Martinなのであろうが)は恐らくHyperdubの中でも最もジャマイカからの影響に自覚的なアクトの一つである。Kevin Martinはそのキャリアの初期にはジャズコアやインダストリアル、ヒップホップなどをプレイしていたが、そうした多くのジャンルからの影響がThe Bug――ジャマイカ的なダブをダンスホールやグライムへと変換しようとするプロジェクトであり、まさにHyperdub的とも言える――には集約されていることが見て取れる。そしてKing Midas Soundはその発展系と見立てることが出来る。そもそもジャマイカにおいてサウンドシステムは同業他社との競合に打ち勝つ必要があったため、とにかくハードで挑戦的な爆音を響かせるシステムが発展していったわけだが、そうした精神がKevin Martinの実験精神やUKにおけるベース・ミュージックと結びついたのがKing Midas Soundであるとも言えるだろう。そんなジャマイカとUKとの混合を感じさせる圧倒的な、全身が総毛立ち肺まで響くベースサウンドとその上でトースティングする2MC(これもサウンドシステム的ですね)の亡霊さながらに幽玄な囁きと佇まいはまさに突然変異種と言うに相応しい、ねじれ感覚に溢れるサウンドであった。


そこからレーベルのボス、Kode9のDJに続く。彼のDJはまさにHyperdubのコンセプトを体現するものであった。UKガラージからグライムやUKファンキー、2ステップやジャングルにUSヒップホップやジューク(!)などもプレイし、あくまでダブステップはその中の一つにすぎない。しかし、それにしてものっけからラストまで終始BPM高めのアッパーなプレイには圧倒された。とにかくジャングルの影響っていうのは大きかったのでしょう。まあ、この辺りのストリート感覚というかコンセプトに傾注して頭でっかちな音になるようなことはなく、あくまでハードなまでのダンス・ミュージックとして機能するところがやはり面白い。そしてこれはまったく個人的な話なのだけれどラストにWarren G『Regulate』をかけていたのだが、ここ最近(中学卒業以来)久しく聞いていないのにNateの歌は未だに全部ソラで口ずさめたのに驚いた。


DVAに関してもリンスFMで鍛えているだけあり、安定感のあるプレイ。若干煽りすぎかな?と思わないでもなかったが、ポコポコとしたキックとファンキーなベースラインの抜き差しのうまさで帳消しというか、あの音が聞こえてくるとどうしようもなく盛り上がる。今回は野暮用のため途中で切り上げたが時間帯的にも良い具合の熱量を持ったプレイだったと思う。


今回のイベントはまさにショウケース・イベントに相応しい、自らのレーベルとしての立ち位置ややりたいことを示すアクトが登場していた。それはすなわち、派手に踊れるだけでなく、レーベルの今までとこれからも予感させる面白さがあったということである。そういうのってなんかいいですよね、的な。

Mark McGuire,青葉市子,Shinji Masuko@代官山UNIT

現行USインディーシーンにおいてその存在感を増すEmeraldsのギタリスト、Mark McGuireが来日するということで、そのライブに行ってきた。Manuel Göttsching + Terry Rileyと形容されることも多い彼の最新作『Get Lost』は、確かにいささかの既聴感は感じられるもののギター多重録音というジャンルにドローンやアンビエント、更に言えばチルウェイブなどのベッドルーム感性を落とし込む今日性の高さを感じさせ、同時に確かな作家性(アンビエントと接続されながらも、その随所に非常にパーソナルで感傷的な部分が盛り込まれている)をも垣間見ることの出来るなかなかの良作であった。そのオーセンティックとエクスペリメンタルのバランスが非常にしっくりきて、年間ベスト(これ、今見るともう既に変えたい……笑・まあ、2011年12月当時のハナシということで)として選び出したくなるほどにはよく聞いていた。そんなわけで今回のライブにあたっても、個人的にはミニマリスティックな陶酔感が彼の持ち味――それこそ前述したManuel GöttschingやTerry Rileyといった恐らく彼自身のヒーローから受けた影響こそが――であると考えていたのでライブに関してもこの辺りを期待していたが……結論としては良い意味で予想を裏切られた。対バン形式だったので登場順に雑感を記していく。
19:40、まずはDMBQ, Boredomsの増子真二。女性ベーシストを引き連れての轟音フィードバック・ギター・ドローン。日本サイケ直系、という向きもあるがそれよりかはむしろ最近のボアダムスとも共鳴するタイプの(まあ、当たり前と言えば当たり前ですが……)シャーマニスティックな質感であり、その場の空気を塗り替えるような轟音と音の抜き差しはなかなか楽しめた。
20:15、次に現れたのは青葉市子。オーソドックスなフォークスタイル(ちょっとクラシック・ギターっぽい?)だがギターサウンドにどこかアーバン・アシッドといったエクスペリメンタル・フォークさらにはブルースの持つ面白さを感じさせ、また彼女自身の声も非常に素敵で詩を丹念に紡いでいくような印象を受けた。少しずつ自分の世界に吸い寄せていくようなスケールの大きな説得力ある演奏には、4曲30分強ほどの短時間に弾き語りという演奏形態でありながらすっと引きこまれていく魅力があり、ぜひともワンマンで見てみたいと思わされた。あと仕草がいちいちかわいらしく激萌えであったという事も付け加えておきたい(オタク)。
21:10そして本日の目当てであるMark McGuireがようやく登場。すらっとしたアメリカのギター青年といった、全くそのまんまの風貌で自己紹介・挨拶をした後おもむろにギターを弾いていく。最初の出音はこれがまったく笑ってしまうほどManuel Göttschingであり、ジャーマン・プログレの美しい陶酔感をゆるやかに作り上げていく。多重録音により積み重ねていったギターのレイヤーやサンプルを抜き差ししていき、音と対峙しながら時には隙間を作り出し、時には再び埋めていくことで新たな音を作っていく。この辺のポップな音響センスあたりに今っぽさを感じながら、ドリーミングなサウンドにうつつを抜かしていると非常にアグレッシブな、そしてそれ以上に素晴らしく感傷的なメロディを持つフィードバック・ノイズ混じりのギターソロが展開される。自らの重ねたギターレイヤーの上で扇情的と言っていいほどソロを繊細に弾き倒す、まどろみの中で号泣しているようなアンビバレンツな感覚は彼のアルバムで言うと『Living with Yourself』が一番近いだろうか。最近の彼の音源と異なり、抑揚と解放、陶酔と情熱のバランスがライブでは後者に寄っているように思えた。後半ではギターだけではなくベースを持ち、また自らの声をアトモスフェリックに使っていきドローンな激情にも収束させたりと展開の多様さも見事であり、1時間ほどではあるがギター多重録音は幅の限られた表現方法だという認識を覆される、様々な表情を見せつけられたライブであった。アンコールは『Get Lost』の表題曲をコンパクトに。ここでもやはり陶酔と激情が美しく展開され、泣けた。
今回のライブはほとんど対バン形式であり、三者三様の音を展開していたがそのどのアクトにも共通して思えたのはギターという楽器の叙情性とそのオープンマインドな性質である。あまりロックという音楽に馴染みの無い思春期を過ごしたためギターという楽器に思い入れが無かった自分ではあるが、多くの人がギターというイコンそのものに情熱を傾けるその理由の一端に触れることが出来た気がする。ライブ終了後に、UNITを出るとかなりの轟音を聞いた割に全く耳に違和感を覚えることなく、「音の構造がしっかりしているとうるさく感じることはない」という細野晴臣御大の言葉をなんとなく思い出した。

Living With Yourself

Living With Yourself