思っている事をワァーっと書いてみよう

何かを喪うという事は突然に起こってくるのであって人間はそれに対してそのままじゃ無力というか、少なくとも何らかの区切りというものがなければ実際に起こったことへ心が転化しにくい性質を持っていると思う。だから葬式とかお別れの会っていうのが太古の昔から脈々と存在し続けて今に至っているのであって、すなわち喪う事の対処法としては、全力で思い悩むことも重要だけれど、それだけでなく喪った事を思って、それを語ったり書いたりする事によって心の落ち着かせどころを探っていくというのが有用なんだろう。まあこんなもんだと自分の思いを推し量って、位置付けることによって気分も幾分かマシになるはずだ。そういった自分に対する処方箋として、僕はひとまずこの事については思って思って思い尽くしてしまったので、あとは少し書いてみたい。
「喪う」というのは趣味の悪いクリシェではなくてアイドルとしての光宗薫という存在に対する自分なりの真摯な対処の仕方だ。現実の光宗薫さんはまったく、これからも他のステージで活躍していく事を願ってやまないし、多分そうなると思う。でもアイドルとしての彼女はもういない。そこに僕は喪失を感じるし、だから悼む必要があると考えた。で、こうした作業はまったく個人的な行いなんだけれど、まあブログなんて全世界に公開される媒体に書いておいて、個人的も何も無い。そこには見てもらいたいという気持ちがやっぱり出てきているのであって、個人的ならば本来チラシの裏に書けば良いんだろうけどそこはなんというかモチベーションの問題というか同じグダグダとした思いつきでもチラシの裏に書くのとは違うというか……。まあ許していただきたい。
しかし……アイドルが一人職を辞したからと言って、論旨も何も無く、またユーモアやシニカルさで飾ることも出来ずただただ思っている事を愚劣に醜悪に吐き出したくなる気分になって、しかもそれを実行に移してしまうのはアイドルというものに移入しすぎだと自分でも思うが、仕方ない。少なくとも、今はそこを仕方ないで済ませてしまいたい気分だ。


アイドルを応援するということは本質的に、倫理的な悪なのではないか。そんな事がいわゆるアイドル論者という人達によって、どれほど昔からアイドルの「記憶」に即して語ってこられたのか、僕はあまり興味が無く知ろうとする気にならないのだけれど、少なくとも現在において特にAKB48グループが提唱する、露悪的なまでの(それは「ガチ」という言葉でも昇華されない程度の)競争原理とそれに追い込まれる女の子の実情をすらエンターテインメントに仕立て上げてそれを楽しむという消費スタイルはやはりやり過ぎなのではないかと論じるまでもなく常識的な感性(あえて言いますよ)をもって思う。応援応援って騒ぎ立てることで正当化した気分になってるけども結局のところ彼女らを追い込んでいるだけなのではないか?と後ろめたさが常につきまとっている事を否定出来ない。誰がどう考えても10代(には限らないか)少女をフィジカルにしてもメンタルにしても追い込んでいくのは倫理的に正しくないし、その点でやはりアイドルを「応援」する事の座りの悪さを感じずにはいられない。しかし、彼女らを一概に「被害者」で僕らを「加害者」と断じるのにもあまり与せないところがあって、それはやっぱり応援というのが究極的にはお金を出して彼女らの目指すところに貢献しているわけで(無論反吐が出るほど醜い論調だけれど、間違いではないとも思う)それだけで解決されるわけでは無いにしろ、少なくともナイーブに加害者被害者の二項対立を言い立てるのではなくて、利用しつつ利用されつつのクールな共犯関係を結んでいけるのではないか、と考えていた。でも多分、そんな事はどこまでいっても1人のオタクが勝手に考え込んでいる願望であって、金を出すということが「応援する」ことであってそれが彼女らの足しに幾分かはなったとしても、それを軽く飛び越えるほどの負担を僕たちは課しているんだろう。あとはいつ閾値を超えるかって問題にすぎない。そんなやるせなさを省みていくと、アイドルなんて職業はファンだの運営だのを肥え太らせるだけであとは何の意味もないしこの世に存在しない方がいいんじゃないかと少し思ってしまう。


アイドルというのは夢(クリシェとしての夢ではなくて、僕たちが現に見る夢)とか映画のようなものだと思う。断片化された彼女についての情報を編集し、繋ぎ合わせる事によって本当は存在しない虚像が浮かび上がってくるというのは映画に似てるし、見ている者がその場面に同化し尽くしたのに後には何も残らないのは夢に似ている。僕はでも、アイドルの本質が虚像であり、夢のようなものであっても自らをそうした虚像として消費されるのを拒む(もちろん、虚像を作り上げる事に徹底するというのも1つのアイドルであり、むしろそれが正道だ。彼女らの事を僕は本当に尊敬する。)、言ってみればキャラ消費には収まらない自意識のようなものを意図的に滲み出させる女の子の事が猛烈に好きだった。倫理的な後ろめたさに少しでも抗いたかったからだろうか、わからないけれどとにかく好きだった。AKB48グループに何人かそういう、いわゆる(あえてこの言葉を使おう)推しメンがいて、そこにはキャラとして消費されるのを拒みながら自分を出していく慎重さに満ちた、しかしダイナミックな魅力があった。特に光宗薫さんって人は意図的に自意識みたいなものを御しきれない自分を出しているのかなんなのか、悩みながらも前へ進もうという、エリート染みた腐れスノッブ耽美派が喜ぶような(最悪だ)葛藤としかしAKB48的というか今の大多数の日本人が喜ぶ躁病のような(これは光宗薫さんの体調不良に対する悪趣味な暗喩ではないので・念のため)テンションによる頑張ろう頑張ろう!という姿勢を貫いていく態度があって、そこを両立している所にアンチ・エリートの包容力というか彼女自信の誠実さみたいなものを感じさせてくれる存在だった。モデルとアイドルというジャンルを越境する在り方それ自体も素敵だったけれど僕がクールだなと思うのはむしろそうした彼女自身の態度にあったと思う。無論、突き詰めれば、それももちろん断片化された情報を僕が勝手に自分で組み直して受けた印象であって、現実の彼女とは齟齬があるんだろうけど。しかしアイドルというものは元来そういうもので、現実の彼女らと僕たちの共同作業的な意味合いが多分に含まれているものであって、すなわち彼女らの小出しにする統制されたイメージを編み上げていく事にその本質がある。その結果、イメージであるから消費する側の観客たち一人一人に彼女ら一人一人についてのアイドル像みたいなのがあって、それは他の人と重なる事はあっても同じになることは決して無い。で、そうした自分の考える他人と他人自身って関係は現実の人間関係であっても似た側面があると思うのだけれど、それとアイドル消費が決定的に異なるのは僕たちがお金を媒介した、限られた見方しか出来ないことで歪められたイメージを創りだしてしまう点にある。すなわち結局の所一方的な押し付けにすぎなくなってしまうということだ。それがアイドル消費の根本的な歪みであり、ひいては倫理的な悪を裏付ける根拠なんだろう。


光宗薫さんはAKB辞めても普通にやっていけそうだとか、辞めた方が今後のためにいいんじゃないかと言うのは簡単だけど、それはアイドルという枠に凝り固まっている乱暴な話であって、結局のところそれに囚われている限りでは被害者/加害者の構図の中でいる事しか出来ないだろう。物事を横断するスリリングな試みに挑戦しようとする人に対してアイドルといった枠(というかアイドルファンの社会やルール?といったものだろうか)がどこまで柔軟になれるか、アイドルに収まらないような人がアイドルをやるという事で試されていたのは結局のところアイドル・ファン自身だったんじゃないか。僕たちはその挑戦に対してまったくと言っていいほど良い結果を提供することは出来なかった。これは本当に、真摯に考える必要があると思う。でも真摯に考えると行き着くところはアイドルを「応援」することの虚しさとどうにもならなさだ。何度も言うが光宗薫さんの持つ魅力というものはクールで、人を人として、アイドルとしての決まりきったパターンに陥ることなく逸脱しながらのファンとアイドルという関係を築いていけるのではないかと僕は思っていた。とはいえ、当然の事ながら僕はアイドル・ファンだがアイドル・ファンは僕ではない。他の人とはどうやら違うものを見ていたようだ。これは責任転嫁とかそういうのじゃなくて、アイドル・ファンという存在に対する見込み違いである。僕の夢想もつまるところは、自分に都合の良いだけの夢にすぎなかったということだろう。後には何も残らない。