Moodymann / Moodymann

MOODYMANN

MOODYMANN

2013年の大きなトピックの一つとしてハウス・リヴァイヴァルがあった。オーヴァーグラウンド・レベルでのその象徴がDisclosure『Settle』だったのだろう。彼らが最先端のものとして披露したビートは、軽妙なキックとその裏で鳴り響くハットの気持ちよさからなるものであり、つまりは紛れもなくハウスのそれであった。
しかし、地上での名声や金と離れた場所でハウスを展開している連中の活躍もまた、2013年を紛れも無く象徴していた。The Trilogy Tapes(所属アーティストの一人、Anthony Naplesはジャングル・リヴァイヴァリストのSpecial Requestのリミックスも手掛けており、ディープハウス・リヴァイヴァルといったムーブメントよりはより広義の90sリヴァイヴァルという視点から語られるべきなのかもしれない……という話は省略)の活躍はもっともエクスペリメンタルなトピックであったし、L.I.E.S.の標榜するロウ・ハウス(このサウンドがシカゴではなくブルックリンから出てきている、というのも面白い)では初期衝動に満ちたサウンドが次々と繰り出された。VakulaやLinkwood でのリリースで知られるFirecrackerからは商業的なそれとは一線を画する温もりを持ち合わせるディープハウスが詰まったコンピレーションがリリースされたし、素晴らしいリミックス集とDJミックスをドロップしたDJ Sprinklesの内省的なサウンドはなるほど、確かにDisclosureがコインの表だとすればその裏面、という指摘がまさにしっくりくる。
彼らは時にレフトフィールドで音を鳴り響かせ、時に沈鬱でスローモーな音を好む。派手でもなければ洒脱であるわけでもない。しかし、その代わりにハウス・ミュージックがどこでどのように鳴らされるべきかに自覚的な、慎み深いモダニストたちだ。彼らがやっていることとは、表面的なリズムや上モノを使うことで流行に乗っていることをアピールするのでなく、むしろハウスのスピリチュアルでダーティーな部分(それは、だからこそ誰にでも開かれたものであり、真に共同体のためのものとなりうる部分だ。)を強調していることのように思える。わかりやすいフックがなくても、フロアで流れれば拳を握りしめ、その場にいる人たちと顔を見合わせたくなる音楽というものは確かに存在する。セールスがどうか、というよりもその場にいる人々にどのように響くか、を重視するのがダンスフロアにおけるやり方なのだろう。
デトロイトでアナログという媒体に拘りながら音楽を作り続ける偏狭な気難し屋、Moodymannはそうした面々たちにとってのあるいは北極星のような存在となっているのかもしれない。昨年のミニアルバム『ABCD』に続いてリリースされた『Moodymann』において彼は、ようやく時代が追いついたか……とも言わずにただ変わらぬことをやっている。つまり薄暗い地下室で響き渡る、猥雑でセクシーな輝きを持つ漆黒のディープハウス/フュージョン=ブラック・ミュージックがこのアルバムには詰まっている。

面白いのは彼がビートというものを必ずしも強調しているわけではないということだ。
CD盤では他愛もない会話によるスキットが随所に織り交ぜられ、曲はぶった切られて唐突な展開を見せたりする。だからダンス・ミュージックとしての機能性よりもAndres『Andres II』にも似たヒップ・ソウルの美学……あるいは、ラジオをザッピングするかのような感覚だ。より広い共同体の為の音楽であろうとする精神が注がれているように聞こえる。”Lyk U Use 2”はそうした美学の象徴のような曲で、軽快なスキャット調の歌唱を暖かいベースラインとシンプルなリズムで包み込んでいく。ハウスの流儀でアンチ・クライマックスだが、素朴な響きで共に歌い出したくなるようなR&Bでもある。Lana Del Reyの同名曲リミックスの再録である”Born 2 Die”は、つまるところ恵まれた者の鼻持ちならない歌であっても、彼の手腕にかかれば美しいソウルへと昇華させられるということを証明するものであり、その音楽が閉じたものでは決してないことをささやかに主張する。これらはクラブや地下室で、というよりラジオや町中のスピーカーから流れてきそうな音楽だ。
Moodymann』においてはこうしたフュージョンやソウルに括られるであろうサウンドとビートの効いた『ABCD』にも収録されたメロウな”Watchin U”やBPM高めの“Sunday Hotel””Come 2 Me”といったダンス・ミュージックが、デトロイト流のブラック・ミュージックとして違和感なく同時に抱擁され、見事に融合されている。というか、ムーディーマンはリロイ・ジョーンズ言うところのブラック・ミュージックの本質である「変わりゆく、変わらないもの」を熟知しているのだろう。それをある時はダンス・ミュージックとして、ある時は流行歌として切り取っているというわけである。

現在活躍する、レフトフィールドなハウス作家たちとMoodymannが違うのはこのように彼が目指している場所というのがダンスフロアに限られない、広いフィールドにあるということなのだろう。デトロイトという都市がいかにタフでなければいられない場所かを熟知しているわけでは当然ないが、その片鱗を聞くだけでそこに住んでいる人々の心境に思いを馳せることは出来る。そのような場所で生まれ育ったKyle Hallがゲットーの怒りのような生々しいリズムを鳴らしたのはなるほどいかにも若者らしい納得できる表現だ。しかし、他の何にも頼れない状況だからこそ、そこで怒りをぶつけるのでなく、音楽をもって彼の地における愛と共同体を肯定するのがMoodymannのやり方なのだろう。ラジオから暖かいソウルを流すということは、ダンスフロアに集まった人々を至福で満たすことと同じくらいに尊いことのように思える。ダンスが出来ないものがいてもブラック・ソウルの響きに温もりを感じることは出来るからだ。フロアで見知らぬ人々と一体感を味わうのと同じように隣にいる友人や家族を大切に思うことも重要だ。
Moodymann』を聞いているとブラック・ミュージックの豊穣さに触れている感覚と共に、優しく暖かいおおらかさが伝わってくる。ブラック・ミュージックが祈りのための宗教歌を一つのルーツとして世俗化していった歴史や、自分のルーツがアメリカとアフリカに引き裂かれ放浪を余儀なくされたブルースマンたちの苦境から生み出された数々の歌を振り返るまでもなく、これは現実というものにしたたかに抗い、家族や仲間と共にあるためのものであり、だからこそ脈々と受け継がれてきた「変わりゆく、変わらないもの」なのだ。そして人々の記憶にあるブラック・ミュージックとムーディーマンの作る音楽が「変わらないもの」であるからこそ、彼の作る音楽は決して気取ったものになることなく、あくまで大衆に寄り添うものとして結実しているのである。