東京女子流 / 約束

約束 (Type-A)  (ALBUM+Blu-ray Disc)

約束 (Type-A) (ALBUM+Blu-ray Disc)

アイドル・ポップというのはその音楽に固有性があるわけではない。ゆえに重要となってくるのは楽曲とデザインにコンセプト、そしてパフォーマンスを一定の指針と共に統合する作業である。そういうわけなので、一部一部が局所的に優れていることは優れた曲や優れたパフォーマンスとなっても優れたアイドル・ポップには成り得ない。その事を理解することなく闇雲に音楽性の高さをアピールするバブルガム・アイドル・ポップが氾濫する中、東京女子流は高いクオリティでコンセプチュアルな佇まいと音楽性とが有機的かつ不可分に結び付く稀有なグループだ。
その証明の一つが2012年にリリースされたアルバム『Limited addiction』であり、ここでは大人であろうとする少女たちの内面における揺らぎを慎重にファンク・ビートに乗せることで、リズムにおけるダイナミズムを勝ち取りながら女性・少女のせめぎ合いを表現していた。
そして喜ぶべきことに3作目となる『約束』においてその結び付きに対する注意は後退することなく、貪欲な深化を見せようとする。その全てが成功しているとは言えないが、彼女らはティーン・エイジャーの無邪気であけっぴろげな態度と女性の気取った態度という二者のペルソナにおける振れ幅を更に広げようと挑戦しているというわけだ。


ところで1stから本作にかけて通底される東京女子流サウンドとは、一言で表現するならファンクの流儀を用いた色気のあるポップネスである。綺羅びやかなアレンジによってそのテクスチャーは、ポップスとしての間口を広げながら10代少女の繊細な揺れ動きを品良く描写する。その一方で脈打つマシン・ファンクはボーカルに寄り添いながらあたかも少女でいられる時間は過ぎ去っていくことを示すかのように確実に漸進する。マッシブなビートはアイドル・ポップスの素晴らしさというものが彼女らがダンスする度生じる躍動の力をリズムで共有する点にあることを強調するかのようだ。このように展開されるポップな上モノと強靭なリズムは一見反りが合わないが、5人のミドルティーンゆえのあどけなさが残るヴォイスと周到に積み重ねられたハーモニーを通すことで、あっと言う間に結び付くのみならず、合理性を飛び越えたある種の倒錯に満ちた高みへと到達させる。コンポーザーとパフォーマーの華麗な職務分担は凡百のもったい振りながら結局のところ陳腐な内面を無理やり音として吐き出すだけに過ぎない自称アーティストたちを強烈に、しかし軽快なファンク・ポップで飛び越す。
こうして確立されたメソッドは『約束』において純血主義的に貫かれながらも、時に微妙な変化を付けることで前述した女性と少女という両者を再び秤にかけようとする。


前半は凡庸と言わざるを得なかった既発曲のまとめという印象はあるが、耳を傾けるべき部分はある。古びたギターとベースが囁きながら突然ギターそのまま”Bad Flower”へ突入する変化のカタルシスは単調でネバつき無く色気を欠いたリズムと進行が退屈をもたらす失敗作というこの曲への印象を変えるのに十分だし、未熟なボーカル・ワークと壮大なプロダクションが率直に言って剥離している”追憶”もここではその拙さが後に展開されるハッとするようなムーディーな表情の伏線となるよう周到に配置されている。
既発曲の軸の定まらなさを構成によってカバーしたそこから先はいよいよアルバムとして何を目指しているのか明確となってくる。すなわちコンセプチュアルに言えば、大胆な女性と無垢な少女というペルソナの付け替えを楽しむようなませた少女像の明確化であり、音楽的に言えば腰の据わったビートとギター、ホーンによるファンクネスによって肉付けされたポップスのハイブリッドな魅力である。
1stの頃を思い起こさせるファンキー・ポップは少女像のペルソナの表象である。”それでいいじゃん”は初期の女子流における”おんなじキモチ”の延長線上にあるが、バックで鳴らされるキーボードと挿入されるブレイクはこの何年かによる彼女らの表情の変化を際立てることに成功しているし、リリックは少女たちの快楽主義を際立たせながらそれによりリスナーをもビートの快楽へ誘う。
音楽的な新機軸は大人らしさの気取りを的確に捉え、また描写するために用いられている。 “月とサヨウナラ”は絶え間なく鳴り続けるベースとピアノのマラソンがジャズ「らしさ」を引き出し、そこで生まれた隙間を女子流らしいという言葉が当てはまる、既に確立されたファンク・ホーン・メソッドで埋めることで密室性を帯びた色気を見せつける。すわNJSかと言わんばかりのスネアを強調した、80年代流儀のタイトなビートに接合されたボーカルが現れては消えてゆく”幻”に繊細なリズム・パターンの優美さは無いがそのかわりに彼女らのボーカル・ワークが大人らしさに挑戦し、成功しながら失敗していく姿を捉えるドキュメンタリーティックな生々しさがある。
だがその一方でこのアルバムの評価を下げる点があるとすれば、かったるいカバーの2曲はその最たる部分である。気が滅入るほど時代錯誤な” Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜”を後世に残るスタジオ録音物に収録させる意図はよくわからないし7分弱にも及ぶ”LolitA☆Strawberry in summer”は相変わらず冗長で取り留めがなく、アルバム全体の緊張感を削いでいる。
このようにペルソナを(時には失敗しながらも)巧みに使い分け、なお分裂気味の印象が無いのはサウンドにおけるトータルプロダクションの妙とも言えるが、”ふたりきり”のような曲が後半に配置されていることも大きく貢献している。アップテンポに響くベースとドラムはボーカルが自由に表現出来るスペースを与え、5人それぞれの表情が活き活きと描写される。少女の拙さとそれが大人のハッとさせられる表情を見せるその瞬間を同時に、克明に記録したこの曲はアルバムのベスト・トラックと言うべき完成度を誇っている。


女性と少女を揺れ動く。ある時には歳相応の、ある時には驚くほど色気のあるその表情を曲ごとに使い分けられるようになっているのは2ndからの大きな飛躍である。そこには色気と無垢、気取りと素の表情を行き来するのみならず、ティーン・エイジャーが気取りの態度を身につけながら女性になろうとする姿そのものを戯画的に描写するかのような知性すら感じさせる。こうした統制された両者の振れ幅というものは5人のボーカルそれぞれの声質・歌い上げのスタイルによって基礎付けられるものであり、彼女らの成長と密接な関係にあるからこそ、そこで重要となってくるのは個々のパーソナリティに他ならない。そしてそれこそが彼女らがパフォーマーである唯一無二の必要性と言えるところであり、それがアイドル・ポップとしての面白さとして結実しているのである。それはすなわち、互いに必然性がある結び付きは強度のある音楽を生み出すということの証明でもある。それにしてもなんとも幸福なグループだろう。