2013年上半期よく聞いたヒップホップ・アルバム

ということで2013年の上半期、現在進行形でよく聞くヒップホップを取り上げ、その魅力に迫りたいと思います。



Chance The Rapper / Acid Rap (FREE DL)
シカゴ出身若干20歳のラッパー、チャンスは2作目のミックステープにおいてブルース、ジャズ、ソウル、ハウス……すなわち彼の地における黒人音楽の歴史を包含しようと目論んでいるようだ。だが彼は教義に忠実な古典主義者では決して無く、思う存分外の空気を吸い込んでいく。ゆるゆるとした上モノを陶酔的に用いてヘヴィーなボトムと共に進行していくトラックはドリーミーでありながらも、多彩なサンプルがメロディックで重たすぎることはない。またライムも一見着実に固めていくと思ったら即座にその表情を変えていく。時に喚き散らし、混乱しながらだがその混乱こそが人間の姿であるとでも言わんばかりに気にもせず情感豊かに突き進んでいく。この空想的な過剰さはプリンスやアンドレ3000のようなヒップスターに……はさすがに遠いが、その素質の片鱗すら感じさせると言っていい。諧謔的なラップはまるでドクター・ドレーに見出された直前/後の頃のエミネムのようでもあるし、ホーンやストリングスをベタつかない程度にビートに従わせていくポップセンスはジョン・ブライオンを率いていた頃のカニエ・ウェストのようでもある。とはいえ、全体のサウンドスケープは『チョコレート・ファクトリー』の頃のR・ケリーを彷彿とさせる。逆に言えば既聴感あるネタ使いも合わせてそうした過去の再生産に過ぎないようにも思えるが、しかし” Good Ass Intro”でのジューク使いやスクリューといった技法をわかりやすく用いて同時代性への目配せにも自覚的であるところがそうはさせないポイントとなっている。それにしてもタイラーの新譜といいこのジャケは……。


LONG LIVE ASAP
A$AP Rocky / LONG.LIVE.A$AP
ハーレム出身の俊英ロッキーを一気にスターダムへ押し上げたミックステープ、『LiveLoveA$AP』にはチルウェイヴやクラウド・ラップのベッドルームにおけるスクリュー感覚があった。それはベッドルーム的感覚のもう一つの展開先でもある80sエレ・ポップの軽快さやディスコの享楽性と結ばれることなく、むせ返るほどの紫煙のヒプノゴティックな重厚さに満ちていた。あたかも、インターネットの過情報を全て飲みこむかのように……。
しかし、およそ1年半の時を経て届けられた今作『LongLiveA$AP』においてはあのデジタルに込み入った密度は、むしろ洗練された風通しの良さに取って代わられてもいる。メランコリアの中に存在する美しさがダーク・アンビエントの幽玄なソウルとも共鳴するであろう、ロマンティックな”Long Live A$AP”で幕を開けるこのアルバムにおける洗練はやはりロッキーの同時代性をすくい取るトラック選びの嗅覚とラップスタイルの多様性に負うところが大きい。例えば”Long Live A$AP”や”Fashion Killa”といった曲のトラックだけを取ってみれば流麗なアンビエンスが特徴的で非常に今日的なスタンダードを作り出していく意欲に満ちている。そこにはエレガンスな態度すら感じさせるのだが、当然一筋縄ではいかない。ここではロッキーのラップこそがだらけて締まりのない流麗さに傾倒したクラウド・ラップの紋切り型から距離を置き、ヒップホップ・アクトとしての誠実性を貫く最大の強みとなっている。彼の披露するラップは驚くほど若々しく、南部の自由な都市描写からの影響を孕んだ豊穣なものであるから、ライミングには歌心もあり、なだらかにトラックと渡り合う。
だから、本作における洗練は耳障りの良さだけをもたらすものではない。切り刻まれたベースラインは一貫性を欠きつつもそれが故に姿を自由自在に変えていく”Goldie”やオールド・スクール・ポッセ・カットを思い起こさせる生々しさに満ちた”Fuckin’ Problems”におけるヒット・ボーイのプロダクションはヒップホップの伝統芸能である荒々しいビートの持つ肉感性を現代のハイファイなサウンドへ落としこむことに見事に成功させていて、スタイリッシュでありながら同時にビートとライムという基本形を疎かにしようとはしない美学がある。つまり、ロッキーは決してヒップホップの泥臭さを忘れようとはしていないのだ。
それは多分に全方位的、八方美人的ではあるけれどクラウド・ラップやスクリュー・ビートのメインストリームにおける一つの発露としては文句の無い出来ではなかろうか。前作がストリートの感性をベッドルームに持ち込んだものだとすれば、こちらはベッドルーム感覚をストリートに持ちだしたかのようである。


12 REASONS TO DIE (DELUXE)
Ghostface Killah & Adrian Younge / Twelve Reasons to Die
独創的で色褪せることのないライムの饒舌なコーディネイターゴーストフェイス・キラーをレトロ・ソウルの復古主義者エイドリアン・ヤングがバックアップした本作は総帥RZAの監修があるせいだろうか、驚くほどウータン・マナーに忠実だ。すなわち、煤けた70年代ソウルを謎めいた高揚で煮詰めた仕上げに一匙のアヴァンギャルドを足すことで、怪しげに断片的な語り口として甦らせようとしている。しかし、単なる模倣に終わるわけではない。同時に「68年に撮られたイタリアン・ホラーのサウンド・トラック」が本作におけるサウンドのインスピレーションであるとするヤングはウータンのブラック・スプロイテーションとカンフーという要素を、チープでコミカルなおどろおどろしさに変換している。B級ホラーとレトロ・ソウルの意匠が巧みに交わることで、あたかも埃を被ったヴィンテージでモノクロな三文小説の亡霊を呼び寄せているかのようだ。
また、ウータン随一のソウル愛好家でもある主役は20年前から完成しているラップスタイルを職人のような慣れた手つきで情熱的に披露する。今回のリリックは彼にしては意外なほど平易で簡易な語り口だが、それがラップの魅力を損なうことはない。時にサンプルと競い合い、時にゆったりとくつろぎながら、気まぐれなライムを吐き出していくことで豊かな才能を持つ新人の向こう見ずさと枯れることを知らないベテランの円熟を見事に両立させている。
不満がないわけではない。ヤングのプロデュースは後半やや焦点を欠いていくし、何より40分に満たないプレイタイムは短すぎる。詰め込みすぎて冗長になるラップ・アルバムというのが枚挙にいとまがないのも確かだが、少なくとも彼のラップがあるならそれだけで退屈で長すぎるということはない。


The Bridge-明日に架ける橋
ECD / The Bridge〜明日へ架ける橋
ECDは二人の娘を抱える警備員であり、反原発を訴えかける反骨精神に満ちた闘士である。同時に日本におけるヒップホップの黎明期の目撃者であり、ビートと競い合う優れたラッパーでもある。またユーモアに裏打ちされた、シーンに対する批評精神はパンクスのそれを踏襲しているとも言える。つまり、何が言いたいかというと……このアルバムはそうした彼の要素がすべて注入された極めてパーソナルでオリジナルな作品でありながら、そのリリックにおいて隠すことなどまるで無いように振る舞う「リアルさ」がヒップホップにおける美学として昇華されており、それゆえにどれほど生々しく逸脱していようとヒップホップ的な文脈から見て優れたものであるということ。
だから「こんなラップは世界に一つだけ」というのは過言ではなく、若さと向こう見ずであることが賞賛されるヒップホップの定形からはかけ離れているが、それがゆえに逆説的に、自らのハスリングをそれらしく語る若手ラッパーより「リアル」であり、教義に忠実なヒップホップ信徒よりも「ヒップホップ」足り得ているわけだ。
もちろん、リリックに力を入れる余り退屈でエゴイスティックな作品に堕すというありがちな失敗にECDが陥るはずもない。『ダーティーサイエンス』の裏の側面とも言えるようなイリシット・ツボイが統制と混乱をもたらしたビートは前作を踏襲したものであるが、より攻撃的だ。ポコポコしたスネアとキック、ひたすら鳴りまくるハイハットの連打は真っ先にジュークを思い起こさせるが、更に遡って発狂したエレクトロ(言うまでもなくフレンチではない)のようでもある。そんなビートの乱れ打ちを相手にして主役のラップは時に寸詰まり、ライムを切りながら巧みに言葉を吐き出していくがまるでミッキー・ウォードのように一歩も引くことがない。


DECORATION
KLOOZ / DECORATION
トリッキーなライム・マニアのフィジカル・リリース一作目はAKLOSALUのそれとは異なり多くのプロデューサーを迎えたカラフルな出来だが、あくまでそのパレットを操るのはトラックメイカーたちではなく最終的には彼自身のフロウであるという所がポイントだ。トリッキーにビートの隙間を探しながら、ここしかないというタイミングでカウンターをかましていくそのラップは偏執的なまでにライムへと飛びつき、表情豊かに言葉を撃ち込んでいく。その姿は華麗というほかない。
また、ありふれたトピックを鮮やかに蘇生させる切り口も秀逸だ。いかにも太古の昔から受け継がれているヒップホップ・ゲームにおけるセルフ・ボースティングがアルバムでは散見されるが、しかし”Supa Dupa”や“整備工場”においては逆転した視点で飽きさせないし、KREVAのストリングスの重々しさをビートの切れ味に変換させる見事な”It’s My Turn”でもまったく怖気づくことなく対等に渡り合う。その一方で”007”や”I’m Gone”など振れ幅を見せることも忘れない。思うに優れたラッパーとはヒップホップ・ゲームにおけるスキル誇示に浸ることはなく、ユーモアと知性で観客を楽しませることの重要性を見落としはしないものだ。


FL$8KS
Fla$hBackS / FL$8KS
キエるマキュウの『Hakoniwa』は素晴らしかった。サンプリングやアナログへの信頼と激烈なミキシングによってこそなる、優れて逸脱したトラックにひたすらナンセンスなリリックだけが充満していくその姿は90年代的であることが現代においても洗練させた表現を生み出す支障とはならないことを証明していたのである。このFla$hBackSも同様に、90年代的であることが時代遅れだというのは懐古主義者のセンスが悪いだけ、と言わんばかりにひたすら「ドープ」で「イル」なサンプリング感に満ちたトラックと言葉を切り詰めビートにハメていく若干のイナたさを感じさせるラップを披露する。それでいてクールで洗練されているのはS.L.A.C.K.やSimi Labなどとも共通する、身体化した優れたタイム感に寄るものだろう。実は極めて同時代的でもあるのだ。
すなわち、彼らは90年代から今に至るまで同じ事をしているわけでは決してなく、あくまで今に生きる若者としてこのスタイルを披露しているわけである。それはむしろリヴァイヴァル的な発想に近いだろう。だから錆びついたところなく、切れ味が鋭いのだ。それとラップが幼少期から身近にある世代特有のそれを日常のものとして楽しみ、遊んでいる感覚は率直に頼もしい。