東京女子流 / Limited addiction

Limited addiction(DVD付A)

Limited addiction(DVD付A)

それにしても東京女子流が去年リリースしたシングル『Limited addiction』は衝撃的だった。それまでの彼女ら、すなわちアルバム『鼓動の秘密』以前の東京女子流はユニットの方向性として「子供」であるメンバーを「子供」として活かし、その「子供」らしい魅力を引き出す一つのエッセンスとしてブラック・ミュージックを引用していたように思える。すなわち、『頑張って いつだって 信じてる』に顕著なように、素晴らしいダンスポップスを提供していながらもそこに通底するのは子供ゆえの底抜けのオプティミズム――それはいわゆるチャート・ミュージックとしてのJ-POPにおける基本理念でもある――であった。言わば1stアルバム『鼓動の秘密』はそうした無垢な東京女子流の集大成であり、記念碑である。
しかしその後リリースされた『Limited Addiction』において、東京女子流は「子供」であることに飽きたらず「大人」としてある事、振る舞う事に挑戦した。そう、子供ゆえのオプティミズムは大人に変化していく自らへの揺らぎ・戸惑いへと変化し、彼女らの拙いとも言える歌唱は以前のハッピーなダンスポップスではなく、ファンク・フュージョン・ディスコといったブラック・ミュージックにJ-POPを組み込ませた、まるで異形とも言えるサウンドに支えられることとなる。MVを見ればわかることだが、それはあたかも楽曲そのものに幼い彼女らが歩調を合わせていくかのような……。とにかく、シングル『Limited addiction』とそれに続く『Liar』で彼女らは思春期の複雑な想い、環境をダンスで昇華させていくようなカタルシスを現出させることに成功した。……そしてアルバム『Limited addiction』もそうした彼女らの変化に衝撃を受けた者に再び、それと地続きの衝撃を与えるだろう。


このアルバム『Limited addiction』は既発曲7曲新曲4曲(それにイントロ・アウトロが加えられる)という前作『鼓動の秘密』と似た構成であり、まあ、ベストアルバムの赴きが強い。とは言え、アルバム全体のまとまりという点では圧倒的に優っていると言っていいだろう。それはシングル『Limited Addiction』〜『Liar』で見せた一つのトーン――すなわち大人と子供の間で揺れ動くアンビバレンツであり、子供が過剰なまでに大人としての意匠を身に纏うことそれ自体のクールさとも言えよう――によってアルバムが覆われているからである。
Sugarhill Gangの『Rapper’s Delight』、というかChic『Good Times』が恐らく元ネタであろう(女子流はこうしたモロな元ネタは珍しい気がする・わかっていないだけかもしれないが)1曲目の『Intro』はこのアルバムが豊潤なダンスポップスに満ちていることを予感させる、アイドルポップスの最良の始まり方の一つだ。そしてそこから続く『Sparkle』〜『W.M.A.D』〜『Regret』の流れはここ最近の東京女子流の楽曲に狂喜しているリスナー(そう、僕のような……)にはたまらないものと言えるだろう。『Limited addiction』以降の東京女子流の一つの到達点とも言えるような大きな高揚感がここにはある。続くカバー曲である『僕の手紙』は悪い曲ではないが1stアルバムの流れを引き継いでいるためどうしても浮いてしまう、しかしその異物感が改めてこのアルバムの全体像を浮き彫りにしているとも言える。
そこから再び既発曲を挟んだ後、恐らく多くのリスナーがこのアルバムにおけるハイライトとして挙げるであろう、バニラビーンズをフューチャリングした『眩暈』が始まる。この曲は……バニラビーンズの軽音楽・歌謡趣味を東京女子流がアップデートするが如き質感を持ち、今までのとはまた違うベクトルで大人の東京女子流を提示しているように思える。アーバンな歌謡を彷彿とさせるタイプの面白さがあり、また個人的にも「東京」感が強いこの質感は非常に好みだ。
そしてこのアルバムは名曲『Limited addiction』に突入した後、バラードの『追憶』を経てジャジーな質感を漂わせる『Outro』で終わる(ボーナストラックとして『We Will Win! -ココロのバトンでポ・ポンのポ〜ン☆-』という面白い曲が入っている。これはこれで前作と今作との橋渡しとして、加えて外部の血をも混ぜあわせた奇妙な結果・わかりやすく言えばミュータントのような感触で非常に好きなのだが……)。いやそれにしてもまったく密度の濃い、呼吸を止め自らの鼓動に耳を澄ませるかのような、それでいてしなやかなアルバムだ。


子供が大人の振る舞いをする。アイドルが強度のある楽曲を歌う。一見アンビバレンツに満ちたこのアルバムはしかし、案外単純なメッセージに満ちている。それは、近年のこの国に顕著なある傾向――中年がいつまでも失われた過去・青春を追い求め、青年たちはもはや幼児退行に耽溺している――に対しての静かな、しかし強い異議申立てと言えるものだ。それは恐らくこのアルバムの主要なリスナーである層が真正面から向き合わなければならない事への一つの問題提起でもある。そもそも「大人として振る舞う事」は――それが例え、過剰なまでの子供が過剰なまでの大人を演じているといたとしても――あるべき姿と言うよりは、クールな行いだ。選択の結果である。見渡せば子供が子供の振る舞いをし、それを大の大人がそのまま消費していくという狂気がこの国には充満しているが、そんな中でこのアルバムはどこまでもクールに、大人であることを選択した結果を体現している。
大人になるとはどういうことなのか、そして大人として振る舞う事を恐れるな。そんなメッセージをこのアルバムは発しているように思える。このアンビバレンツを倒錯としてただ消費してはならない。少なくともブラック・ミュージックは老いや成長と共に歩んでいける音楽である事を僕たちは知っている。東京女子流はブラックネスを自らのものとした。そう、僕たちも彼女らと共に少しずつ成長していけるはずだ、止まった時計の針を進めて。